高橋睦郎『つい昨日のこと』(41) | 詩はどこにあるか

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41 薊の木 アナトリアで


この乾燥した土地では アザミも木になる


 その木になったアザミを高橋は見たのか。うわさを聞いて書いているのか。「薊」と「アザミ」は意識的に書き換えたものだとするなら、この表記の背後には現実と夢が交錯している。


掘り起こしたその根は とろとろに柔かく
老人の衰えた精を養う という
お化けアザミの精のついた老人は?
美しい花は咲かせず 棘だらけ
近づく人をやたら刺しに刺す


 原文は「堀り起こした」だが、誤植だろう。
 「とろとろに柔かく」ということばは、「とろとろ」に重点があるのか、「柔かく」に重点があるのか。区別して考える必要はないかもしれないが、「とろとろ」という「意味」になりきれない音(翻訳不可能な音)の方が、たぶん高橋にとっては重要だったと思う。詩にとっても、重要だ。意味になれないなにかが、音そのものとして動き始める。その衝動のようなものが高橋を動かしている。
 「老人」は高橋の「自画像」だ。
 棘に刺された人の、その小さな鮮血が、高橋にとっての「花」である。「花」を獲得するために、高橋は棘になる。二つのものが交錯し、その交錯のなかに世界が動く。
 「薊」と「アザミ」、「とろとろ」と「柔かい」、「花」と「棘」と「刺す」。
 「棘」と「刺す」は文字がとても似ている。「棘」になることが「刺す」なのか、「刺す」という動詞が「棘」なのか。これも、「文字(ことば)」では区別できても、「肉体(実感)」では区別がむずかしい。
 違うけれど同じ、同じだけれど違う。そういうものが動いている。「堀り起こした」の誤植も、そういうものの影響を受けているのか。