36 迷路 クノッソス
「迷路」には二つの種類がある。「路」そのものが入り組んでいるときと、「意識/自己」がさだまらないとき。路がまっすぐでも、その路で迷うことはある。「この方向でよかったのか」と、ひとは、いつでもどこでも迷う。
この 掘り出され 真夏の日差にさらされた 明るい迷路
クノッソスの迷路(迷宮)に立った後、高橋は自分の迷路を見つけ出す。「迷路」は「迷う」と言いなおされた後、路は「謎」と言いなおされる。路は「謎」の比喩になる。あるいは「謎」が路の比喩かもしれない。
比喩とは、かけはなれた二つの存在を結びつけ、「ひとつ」にすることである。ふたつの存在に共通のものを見いだし、共通性を浮かび上がらせることで比喩が成り立つ。
では人は、なぜ、かけはなれたもののなかに共通性を見いだしてしまうのか。それこそ「謎」だ。こういうことを考えると「迷路」にはまり込む。でも、入り込まずにはいられない。
私たちが眩しく迷うのは 私たちひとりひとりの抱え込む謎が
暗くも曖昧でもないこと 明るく正確であることこそが
謎の本質だ と知るため その真実を知ってしまったら
爾後 私たちの足の向くところ 路という路がすべて迷路に
かけはなれた「ふたつ」を「ひとつ」にする比喩。そのとき、動いている「意識」は、比喩を語った人には明確である。曖昧さは少しもない。自明でありすぎるために、ことばにできない。自明とは、ことばをつかわずにつかみとる絶対的な明確さだからである。この絶対的な明確さを、高橋は「真実」と言いなおしている。
ここに「矛盾」がある。ことばにできないものをことばにするのが詩人である。詩人であることが、すべての矛盾を引きつけてしまう。
このとき高橋を動かしているのは、「肉体」そのものである。省略してきた詩行を振り返る。
入り組んだ迷路の そこここに散らばって立つ私たちは
二つの蹠のほか 染みほどの影も持たない真昼の迷い子
「蹠」で「立つ」。そのとき高橋は「ひとり」になる。ひとりの「肉体」のなかで、すべては起こるのだ。「路」と「謎」は、迷うという動詞をひきつれて「迷い子」の「子(人間)」に収斂する。