高橋睦郎『つい昨日のこと』(32) | 詩はどこにあるか

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32 目覚めよ

 「光と闇」と同様にソクラテスのことを描いている。


雄鶏を一羽 アスクレピオスに献げといてくれないか


 という一行から始まり、雄鶏、雌鶏の比較、最後にはどちらも潰され、食べられてしまう運命を書きつづり、こんな風に転調する。


かの人もデルポイからの使者よろしく 虚仮 コケコッコー
汝自身を知れと 告げつづけたばかりに 潰されたもの


 「潰された(潰す)」には肉体のうごめきがあるが、「虚仮 コケコッコー」ということば遊びに迫力がない。駄洒落にしか見えない。「虚仮」には批判をこめているのだが、肉体の怒りになっていない。「虚仮」ということばを知っているという、知識の方が前面に出てしまっている。
 ……。
 高橋はソクラテスが好きではないのかもしれない。ソクラテスは「知識」を前面に出して対話を繰り広げたわけではない。「知識」をひとつひとつ批判し、ことばを生まれ変わらせた。


潰されて精神の雄鶏と甦り なおも告げる 覚めよ起きよと
それでもなお 私たちの蒙昧の眠りは深く重たい


 高橋は「私たち」と書いているが、その「私たち」に高橋は含まれるのか、含まれないのか。高橋を除外して「私たち」と言っていないか。「覚めよ起きよ」という声は私(高橋)には聞こえるが、他の人には聞こえていない。それを嘆いているように感じられる。
 嘆くことで高橋を含まない「私たち」を批判しているように感じられる。だから、ソクラテスが好きではないんだな、と思ってしまう。