高橋睦郎『つい昨日のこと』(26) | 詩はどこにあるか

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                         2018年08月03日(金曜日)

26 願望

 男は女に殺されたがっている。


オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる


 この二行だけが美しい。あとは「説明」である。
 悲惨な情景が詩なのか。
 「オルペウスのように」「ペンテウスのように」の「のように」が詩なのだ。「ように」と言うとき、想像力が動く。いま、ここにないものを、いま、ここへ呼び寄せる。そのとき「首を引き抜かれ 海に投げ込まれる」「手も 足も 胴体から引きもがれる」もまたことばによって呼び出された情景である。
 言い換えると、それはすべてことばの復習なのだ。
 ひとはあらゆる情景をことばにするわけではない。けれどギリシアはすべてをことばにする。情景を残すのではなく、ことばを残す。

 「説明」もことばだが、説明には「意味」はあっても「現実」がない。言い換えると「説明」は簡単に反対のことばになりうる。
 この詩で言えば、男は女に殺されたがっているという「意味」は、いつでも男は女に殺されたがっていないと言い換えることができる。反対の意味になりうる。
 言い換えが聞かない「真実」は、


オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる


 だけである。
ぞくぞくする恐怖。怖すぎて理性が働かない。愉悦と勘違いしてしまいそうな惨劇。比喩なのに言い換えがきかない。それが詩だ。