高橋睦郎『つい昨日のこと』(25) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

25 女部屋のギリシア


みんな女部屋で育った 石屋も 皮革屋や 金鉱持ちも
火と 粉と 魚の匂う 日の差さない 女の領域で


 書き出しの二行を読みながら、ふと、「現実は」に出てきた「贅沢三昧」ということばを思い出した。「現実は」には貧しい古代ギリシアの食事(献立て)が出てきた。しかし、その献立ては「ことば」そのものを読むとき、とても「贅沢」である。「音」と「色彩」が豊かで生き生きしている。
 この「女部屋」についても同じことが言える。


母親っ子を卒業するため 老いた娼婦を呼び後ろから姦す
乳房の慕わしさの女部屋は 女陰のおぞましさの女部屋に


 否定的に語られるが、意味は否定的であっても、ことばそのものは肯定的である。こころは女部屋を離れない。ことばにすると、ことばが「ほんとう」となって動き始める。ことばが世界を「贅沢」に変える。贅沢とは「豊か」である。
 つまり「贅沢」の反対は「質素」ではなく「貧困」だ。男の「貧しさ」を「欠乏」と言い換えると、女と男の違いがはっきりする。
 「年老いた娼婦を呼び後ろから姦す」と高橋は書くが、現実は逆だ。


誰のせいでもない 男の下らぬ自尊心から出たことなのだが


 「自尊心」は「欠乏」そのものである。「自尊心」などに頼らなくても生きて行けるのが人間そのものの強さである。女の強さである。男は自尊心なしでは生きていけない。その自尊心を「下らぬ」と高橋は否定する。そのとき高橋は男を否定している。

 ここにとてもおもしろい「ことば」そのものの「肉体」がある。
 「下らぬ」ということばを引き受けても傷つかない強さが「ことば」そのものにある。ギリシアには、ことばがふんだんにある。ことばの贅沢をギリシアは生きている。そのギリシアの贅沢を高橋は引き継いでいる。
 いのちの集中力が、ことばをいくつにも分裂させ、同時に凝縮させる。そういう運動体としてのギリシアに高橋は向き合っている。