24 現実は
古代ギリシアはお昼と夕餉の二食
献立ては 大麦の粥一杯と数個のオリーブ
と古代ギリシアの暮らしが語られる。食生活から始まり、衣服、室内の家具が語られていく。それに対して、
ギリシア好きを標榜しながら 贅沢三昧
私たちは ギリシアから冥界ほども遠い
「標榜する」という動詞がつかわれている。「公然と語る」くらいの意味だろうか。「語る」は「ことば」だから、「ことば」と「行為」が対比されているということになる。
詩は「私たちの現実は贅沢三昧で、ギリシアからはかけ離れている」というのだが、これを「ことば」と「行為」をつかって言いなおすと、「私たちのことばは、ギリシアの行為からかけ離れている」になる。「私たちの行為は、ギリシアのことばとかけ離れている」になる。私たちの行為と、ギリシア人の行為はもちろんかけ離れているが、そのかけ離れていることが「ことば」と「行為」くらいにかけ離れている。この分断を高橋は「冥府」ということばで象徴している。
「ことば」と「行為」のあいだには、生と死、生と冥界ほどの距離がある。
「標榜する」ということばをつかうとき、高橋は、その距離を見ている。
気になるのは「贅沢三昧」という「ことば」である。ギリシアの「行為(暮らし)」が「献立ては 大麦の粥一杯と数個のオリーブ」という具合に具体的に語られるのに対し、「贅沢三昧」は抽象的にしか語られない。高橋の「行為」は具体的なことばとしては語られていない。
高橋は自分自身の「行為(現実/肉体の動き)」はことばにしない。すでに存在することばのなかでことばを動かし生きている。「ことば」と「行為」の乖離というのは、高橋の「性格」なのだ。
「冥界」というのは「ことば」でしか知ることのできない世界だが、それが比喩として出てくるのも、高橋が「肉体の世界」ではなく「ことばの世界」を生きているということを「証明」しているように思う。高橋があこがれるのは、「ことばのギリシア(古代のギリシア)」である、と言いなおせば、高橋が「ことばの世界」を生きていることがより鮮明になるか。