18 遅刻者(嵯峨信之を読む) | 詩はどこにあるか

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18 遅刻者

遅刻者である
何ごとにも
ぼく自身に到達したのもあまりにも遅すぎた

 「遅刻者」は「遅刻した者」。そのことばのなかに「遅刻する」という動詞がある。「時間に遅れて/到達する」。
 これは、少し、奇妙なことばかもしれない。
 到達しないのではなく、到達したから「遅刻する(遅刻した)」ということばになる。
 これは、こう言いなおされる。

生きるとはついに終わることのない到達であろうか

 必ず「遅れてしまう」。それが「生きる」ということである。それは「到達しない」ということではない。
 では、なぜ、遅れるのか。
 途中にこういう行がある。

川を越えてもさらにその向こうに別の川がある

 「別の川」。「別」を見てしまう。「別」を発見するから、「遅れる」のではないか。「別」は「別れる」であり「分ける」でもある。「別れ道(分かれ道)」で、最短距離を選ばない。そうすると必然的に「遅れる」。
 「遅れる」ことを「別の道を歩いたため」ととらえると、そこに「詩」が見えてくる。「別」を発見しつづけることが「詩」。「遅れる」ことは「生きる」を豊かにするになる。
 嵯峨の「遅刻」ということばには、絶対的な否定がない。むしろ、やわらかな肯定を感じる。