14 盲目の魚(嵯峨信之を読む) | 詩はどこにあるか

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14 盲目の魚

呑みこんだ言葉が
ふいに
眼のなかに浮きあがつてくる

 「呑みこむ」は「沈める」。「浮きあがる」と呼応する。
 「言葉」は二連目で、言いなおされる。

尾鰭も 水掻きも腐つてしまい
泥ばかり食つて生きていたのだろう

 「沈められた」ことばは、「外形」が腐ってしまった。「泥」ばかり食っていたからである。それは「泥」のなかにすんでいたために、盲目になっている。盲目の魚は「ぼく」の「比喩」である。

それからだれもぼくの姿を見たものはない

 「沈める」は「沈む」になり、「沈む」は「見えない」になる。「泥」と「盲目」がその変化の中で交錯する。
 「盲目の魚」は何も見ない。「盲目の魚」を見るひともいない。けれど、その「盲目の魚」がことばを「呑みこむ」ことによって生まれたことを「ぼく」は知っている。それは「ぼく」にだけ見える。「ぼく」の「眼のなかに浮きあがつてくる」。