一つの名を呼びつづけて
日の果てに来た
驚いてひきかえそうとした
「日の果て」は「比喩」である。あるいは「仮の目印」である。「日」そのものに「果て」はない。「日」は「時間」だからである。
「一つの名を呼びつづけて/一日は終わった」と書かなかったのはなぜなのか、なぜ「果て」という「比喩」をつかうのか。
「果て」は名詞だが、動詞にするとどうなるか。「果てる」である。
一行目の「名を呼びつづける」の主語は書かれていないが「ぼく」である。その「ぼく」を主語として引き継いで二行目を言いなおすと、「ぼくは日の果てに来た」であり、この「比喩的表現」をさらに言いなおすと「ぼくは日をつかい果たしてしまった」になる。「果て」は、そうとらえなおすことができる。
でも、嵯峨は「果て」と書く。
「果て」は仮のもの、「頭」で設定した目印に過ぎない。だから、そこから「ひきかえす」という動きをこころみるが、そのときの「ひきかえす」は肉体の運動ではなく「頭」の運動である。「肉体」ではなく、「論理」が動く。
時のながれに逆らいながらぶざまな恰好で押しながされる
時は未来へ向かって流れ続けるだけのものだから、過去へは引き返せない。そのことを、こう表現している。「頭」のなかの「自画像」である。
一方に「現実の姿」があり、他方に「頭の中の姿」がある。その二つは一致しない。これがいつでも起きることだが、その不一致が特に気になるのが「青春」というもの。
その不一致を描き出すのに、嵯峨は、どういう「動詞」をつかっているかに目を向けると、詩が、深いところで動く。
「果てる」は「果たす」。「果たす」は「実現する」。嵯峨には、「一つの名を呼びつづける」ことで「実現したいこと(果たしたいこと)」があった。そして、それは「果たされなかった」。