映画には、いろいろな楽しみがある。エミール・クストリッツァの映画では、音楽が楽しい。動物が楽しい。人間も楽しいのだが、音楽と動物が、なんともいえず「わいざつ」なところがいい。「わいざつ」というのは「人間っぽい」ということである。「人間」のなかにある「野生」を音楽と動物が代弁してくれる感じがする。
たとえば、こんなシーン。豚が殺されそうだと察知すると、あちこちからアヒルが集まってくる。ほかの動物の悲劇が好き? なんて思ったりしたのだが、なんとなんと。豚の血をためたバスタブ(のようなもの)にアヒルたちが次々に飛び込む。なぜ? なぜ、わざわざ血まみれになって汚れる? なまぐさい血のにおいに蠅が集まってくる。それを「ぱくぱく」食べるためなのだ。どのアヒルが最初に思いついたか知らないが、これはアヒルの知恵なのだ。
それからロバは、兵隊を起こす起床ラッパのまねをする。起床ラッパといっても、ほんもののラッパではなく、兵士が口でラッパの音をまねする。その音そっくりに鳴くのである。へええ、ロバってこんなに器用? こんなに耳がいい?
主人公と仲がいい鷹(ハヤブザ? よくわからないが、猛禽類)は主人公の演奏する音楽に合わせて肩(翼の付け根)でリズムをとる。蛇はこぼれたミルクをのんだ恩返しに、主人公を助ける。
動物は、戦争とは無関係に生きている。人間のやっていることなんか無視している。自然の「非情」が動物にあらわれているのだが、この「自然の非情」というか、「自然」そのものが、人間の「無防備」の美しさにつながる。「野蛮」なの美しさ、といいかえてもいいかなあ。
「停戦(終戦?)」を祝いながらも、「ビッグ・ブラザーがいるかぎり戦争はつづく。ビッグ・ブラザーは戦争が大好き」というような歌を歌う民衆の強さ、ひねくれ加減がいいなあ。その歌の、「なまなましい地声」がいいなあ。どこにでも、いつでも、音楽がある。「平和がきてよかった」という歌よりも、「事実」を見ている。
後半の、「恋の逃避行」も楽しい。ファンタジーなのだが、ひとはいつでもファンタジーを生きる。戦争のさなかでも。木の上での、はじめてのキスとか、川を流れる結婚式の白いドレスとか、水辺の小屋でのセックス(唐十郎の芝居みたいに、小屋が解体し、自然のなかにさらけだされる)とか、水をつめた瓶を楽器にしたてて始まる音楽とか、とても楽しい。
でも、二人がハッピーエンドにならないのなら、こんなシーン、何のために?
最後の最後に、羊飼いが、自殺しようとする主人公を引き止めて、こう言う。「死んじゃいけない。おまえが死んでしまったら、誰がいったい彼女のことを思い出すのだ」。
あ、いいなあ。
人は、人を、思い出さないといけない。思い出の中で人は生き続ける。これを大げさに言うと「歴史の中で人は生き続ける」ということ。どうやって人が生きたか、それをつたえるために「歴史」がある。「歴史」を無視するとき(修正するとき)、死ぬは死ぬ。というより、二度目の殺人にあう。二度、殺される。
ふと、安倍のことを思ったりする。
最後の最後、主人公が、恋人の地雷で死んだ野原に石を敷き詰めるシーンがある。15年後、ということだが、15年間、通い続け、一個一個敷き詰めてきたのだ。まだ空き地がある。そこを埋めないといけない。これは、戦争で殺された同胞を忘れない、というエミール・クストリッツァ監督の「決意表明」みたいなものだ。まだまだ、撮り続ける。「主演」も兼ねているのは、そういうことを明確にするためだろう。
(こういう「意味」ではなく、映画のなかに出てきた動物についてもっともっと書きたかったのだが、最近疲れ切っているので、どうしても「意味」に意識が流れてしまう。流されてしまう。最後の文章は無視して、動物が人間のようにふるまい、人間が動物のなまなましさ、かわいらしさで動くシーンを味わってください。)
(きのう、ここまで書いた。)
で。
話が「意味」に断線してしまったので、もう一度、映画にもどっておく。
映画の冒頭に、とっても変な巨大時計が出てくる。その時計にみんな困っている。困って、壊してしまうのだが、またつかっている。これって、何かの「比喩」? そうかもしれない。でも「比喩」だとしても、「意味」は考えない方がいい。巨大時計の、へんてこりんな「リアリティー」だけを感じればいい。
思い出というのは、こういう「リアリティー」のことである。「意味」を突き破って、そこに存在している「実感」。
主人公をめぐって、二人の女が「恋のさや当て」をするシーン、そのふたりの姿。なぜか似ている。それも楽しいし、病院に入院している二人の女(同じ病気、時計にかまれて、その毒が回る)を見舞いに来た男が、雨漏りから二人を守るために鍋を両手に抱えて立っているシーンも好きだなあ。男の上にも雨漏りがするので、男はやっぱり鍋をかぶっている。
うまく説明できないが、「真実」があって、その「真実」に気づいたとき、ひとは「逸脱」していく。ばかばかしい行為をしてしまう。「野生」にもどる。そう、私は感じてしまう。
ラスト直前の、二人が、羊がこどもを産むシーンを見るところなんかにも。兵士に追われ、自分が死ぬか生きるかというときに、小羊が生まれ、それを羊飼いが水で洗ってやるシーン(洗礼する?シーン)に、みとれている。そんな余裕があるのか。ない。ないけれど、ふと、みとれてしまう。ここにも「意味」はあるだろうけれど、このシーンが何かを「暗喩」しているのだろうけれど、そういうことはわからないまま、ただ、そこにある充実した時間にのみこまれてしまう。
そういうことが、たぶん、生きているということなのだろうなあ。
主人公が飛び交う銃弾のなかをミルクを運ぶ。缶に弾があたり、ミルクがこぼれる。そのシーンも好きだし、ふっとんだ耳を女に縫いつけてもらうシーン、もうひとりの恋人が体操で鍛えた身のこなしで男に絡みつくシーンも好きだなあ。そんなこと、ありえない? でも、思い出のなかでは、そういう具合に、「リアリティー」が独立して動いていく。「意味」に支配されずに動いていく。「リアリティー」が解放されていくと言ってもいい。
どうでもいいが、二人を追いかける兵士が、「俺たちはここにいる」と鏡に太陽の光を反射させて知らせるシーンなんかも、私は好きだなあ。おいおい、追いかけているなら、追いかけていることを知られないようにして追いかけるのが、相手をつかまえるための鉄則だろう、なんて、言っても始まらない。
イタロ・カルビーノの「真っ二つの子爵」で、悪人の残したなぞなぞを解きながら、悪人の指定した場所へ対決しに行くエピソードに似ている。なぞなぞの答えを間違えたら、対決できないだろう。なぞなぞなんかで敵を呼び出すなよ、というのは「客観的批判」であって、読みながら、なぞなぞで対決場所を指定するなんて、やってみたいなあ、おもしろいなあ、と私は笑いだしてしまう。
私たちは、たぶん、そういう「くだらない逸脱」を生きている。そこに「自由」がある。「自由」とは「くだらない逸脱」のことである。
最初、私は「わいざつ」と書いたが、「わいざつ」とは「意味」に整理される前のリアリティーであり、くだらない逸脱のことだろうなあ、と思いなおす。
あ、また「意味」を書いてしまったか。
(KBCシネマ2、2017年10月14日)
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