2017年09月14日から09月17日まで、ソウルとピンチャンで「韓中日詩人フェスティバル」が開かれた。それを記念して「2017韓中日詩選集」が発行された。そのなかに、とても魅力的な詩がある。
姜寅翰(Kang Inhan)「手ぶらの記憶」(李國寛訳)
私がそっと手に取ったこの石を
生み出したのは川の水だろう。
丸くて平たいこの石からある思いが読み取れる。
堅固な暗闇の中でばたつく
得体の知れない飛翔の力を私は感じる。
手の中で息づく卵
鳥籠からたった今取り出した血の付いた卵のように
この中で目覚める宝石のような光と張り詰めた力が
私の血管に乗って伝わってくる。
左腕を槍のように伸ばし対岸の丘に向けて
右手をしばし曲げてから
力いっぱい放れば
水面は軽く石を跳ねて、跳ねて、さらに跳ねる。
見よ、流れる水の上に稲妻が走るように
花が咲く、咲く、咲く
石に唇をつける川の水よ
冷たく短い口づけ
水晶となって咲く虚無の花房よ。
私の手から飛んでいった石の意思が
花咲かせるその美しい水の言葉が
私にはわからない。
何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。
川原での水切り遊び。だれにでもしたことがあるだろう。水面に滑るように小石を投げ、何回水面でジャンプするか。それを競ったことはだれにでもある体験だと思う。この詩は、そのことを書いているのだが、とても美しい。ことばが次々に変化していくところが感動的だ。
「丸く平たい小石」の「丸く」が「卵」にかわる。そこから「鳥」が孵化し、飛び立ち、対岸へ飛んで行く。そのときの水面上に飛び散るしぶきを「花」にたとえている。鳥から、花への比喩の飛躍に美しい夢がある。ここがいちばんすばらしい。
花が咲く、咲く、咲く
この一行に、私は傍線を引き、それから行頭に☆マークをつけて、あれこれ考え始める。この詩の感想を書きたい。どう書けば私が感じたことがことばになるか。そう考えながら、詩を読み直す。どこに感動したのか、ゆっくり読み直す。
花の比喩に、なぜ、こころが震えたのか。
比喩の多い詩、、比喩の詩と言ってしまえばそれでおしまいになりそうな詩になぜ感動したのか。
書き出しの一行。
私がそっと手に取ったこの石を
ここに「手」という「肉体」が描かれ、「取る」という「動詞」が動いている。このことばを読んだときから、私の「肉体」は動き始めている。
「石」を「手に取る」。その動きを、私は私自身の「肉体」で追体験できる。石を手に取った記憶が「肉体」のなかからよみがえってくる。書かれているのは「姜の肉体」だが、そこに「私の肉体」が重なるようにして動く。自分の「体験」として、それを追いかけることができる。
「丸くて平たい」形の「丸く」から「卵」を「手に取った」記憶がよみがえる。「肉体」がおぼえている。「鳥籠」で姜はどんな鳥を飼ったことがあるのか知らないが、私は鳩を飼ったことがある。鳩は卵を産む。その卵を「手に取って」みたこともある。その重さは、そこに「いのち」があるという重さだ。雛がかえり、飛べるようになるとどんなにうれしいだろうと、わくわくする。
この感覚を姜は、
私の血管に乗って伝わってくる。
と書いている。「私の血管に乗って伝わってくる」のなら、「私の思い」も「私の血管に乗って伝わっていく」。「卵」に伝わっていくはずである。そして、ふたつの「血(いのちのみなもと)」はつながる。交じりあう。やがて生まれてくる鳥は、ただの鳥ではない。姜は鳥になって生まれ変わる。その鳥には姜の血が流れている。さまざまな思いが流れている。
石を投げる(放る)は、鳥になって飛んで行くでもある。
ただほんとうの鳥ではなく、その鳥は比喩で、実際は石が水の上を飛び跳ねていく。
夢と、比喩と、現実が交錯する。そして、その夢にも、比喩にも、現実にも、姜の「肉体」が深く関係している。肉体の動き、手に取る、手で包む、手で感じる、手で放る。手というか、右の掌だけではなく、石に触れていない左の手も投げるという動作に参加している。書かれていないが、足や、腰もいっしょに動いている。肉体のぜんぶが動いて、石を「放る(投げる)」。そのとき、石はただ投げられる物体ではなく、姜の思いが石になって飛んで行く。姜の肉体そのものが飛んで行く感じになる。
水切りのしぶきを「一回、二回、三回」と数えるとき、「思い」はそのしぶきの場所まで飛んでゆき、自分自身の肉体もその場所まで飛んで行ってしまっている。川原にいることを忘れてしまう。
この感じを、
私の手から飛んでいった石の意思が
と姜は書くが、飛んで行ったのは「石の意思」ではなく、「姜の意思」なのだ。「石」と「姜」は一体になっている。
人間は「肉体」だけではなく「精神」でもできている。「意思」も含んでいる。その「意思」が跳びながら、花を咲かせる。
だから、それは「川の水」が開いた花であると同時に、「石」に託された姜「意思」が開かせた花であり、また姜の「意思」が開いた花でもある。こういうものは「区別」はできない。
「比喩」。何かを「比喩」で表現するというときには、そこには人間の「精神(意思)」が動いている。その動いていたものが、ここで「花」という形に生まれ変わる。
石が卵に、卵が鳥に、そして鳥が花に。
「比喩」の自然な変化、そこに参加していく「肉体」と「動詞」。それが一体になっている。
二行目にもどる。
生み出したのは川の水だろう。
ここに「生み出す」という「動詞」がある。
この「生み出す」という「動詞」を引き継いで、姜は石から卵を、卵から鳥を「生み出した」。その姜に応えるように、川の水は、こんどは「花」を「生み出した」。それは、ある意味では、姜への「返礼」である。
日本のことばいえば、ここでは「相聞歌」が交わされている。川の水と姜が「石」を媒介にして、互いの心(意思)を打ち明けあっている。そういう風に読むこともできる。「相聞歌」であるからこそ、そこには「唇をつける」(キスをする)という「動詞」も加わってくる。「相聞歌」は、もう、この瞬間からセックスそのものでもある。
セックスはエクスターにつながる。エクスタシーの瞬間に発することばをひとはおぼえてはない。何といっているのか「分からない」。分からないけれど、それをひとは記憶している。「記憶(する)」ということばを姜はつかっている。
「記憶」は「意識(頭脳)」の「記憶」を指すことが多いが、「肉体の記憶」というものもある。「肉体がおぼえている」。たとえば、「泳ぐ」「自転車を漕ぐ」。こういうことは長い間やっていなくても「肉体」が勝手に反応して、溺れない、倒れずに走るということができる。
石を投げる「水切り遊び」もまた「肉体の記憶」になる。投げるときの腕の動かし方、腰のひねり方。石を選ぶときの、掌の感覚。これはまた「石に対する記憶」でもある。どんな石を選んだか、という「記憶」。すべては渾然一体となっている。「渾然一体」は、ことばにはできない。
ことばにできないから「分からない」というが、分からなくても「おぼえている」ということがある。
素手で何ももっていない。でも、その素手には(掌には)記憶がある。
何もない掌にしばし留まった石を記憶するだけ。
私が「おぼえている」ということばであらわそうとしたものを、姜は「留まる」という動詞であらわしているように思う。「記憶」が「留まる」ことを「記憶する、おぼえている」という。
多くのことを私は語りすぎたかもしれないが、まだまだ語り足りない。
この詩には、ことばの「呼応」というものがたくさんある。
「生み出す」と「卵」、「ばたつく」と「飛翔」、「飛翔」と「放る(放つ)」、「飛翔の力」と「張り詰めた力」、「血の付いた卵」と「目覚める宝石(のようにな光)」、「目覚める」と「血管に乗って心臓に伝わる(心臓を刺戟し、鼓動を激しくする)」、「暗闇」と「光」、「思いが読み取れる」と「記憶する」、「左手」と「右手」、「伸ばす」と「曲げる」。類義語の呼応、反対語の呼応が交錯する。この交錯が「音楽」となって響いてくる。この「音楽」は「音」そのものの響きあい、和音ではなく、肉体と意識の交錯する「無音の音楽」である。肉体と意識を動かすことで感じ取ることのできる音楽である。
その「無音の交響楽」の豪華さとスピードに、私は酔いしれてしまった。
*
この詩は、09月16日、38度線近くの会場で朗読された。
そこに行くまで、この詩の「対岸」ということばは、もっぱら「川の向こう」という「意味」であった。私の知っている「川岸」(私のふるさとにもある川岸)であった。だからこそ、私はこの詩に私自身の「肉体の記憶」を重ねてしまったのだが。
そうか、姜にとっては「対岸」は北朝鮮のことだったのか。
うすうすとは感じていたのだが、北朝鮮のすぐそばまで来て朗読を聞くと、それがはっきりと実感できるものに変わる。「花=意思」がくっきりとみえてくる。
いつでも「対岸」を姜は意識している。「水切りの石」のように、「ことば」を「対岸」にまで届けたい。水切りの石が跳びはねながら、ふたつをわけるもの(境界線、川、水)の上に「花」を咲かせながらつながるといい。
そういうことを夢見ているのだとも思った。
ほかにもたくさんのすばらしい詩があるが、この一篇の詩に出会えたのは、ほんとうに幸運だった。うれしかった。