「嵯峨信之全詩集/時刻表(1975)」を読む(3-4) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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7 *(昨日とはどういうことだろう)

昨日とはどういうことだろう
忘れるという領土はどこからつづいているのか
また遠ざかることで何が始まるのか

 「忘れる」という「動詞」を「領土」という空間と結びつけて考えている。「領土」は「忘れる」の比喩ということになる。「つづいているのか」は「出発点(起点)」を問うているのだが「忘れる」という「動詞」そのものが「つづいている」と読み替えることもできる。
 「忘れ/つづける」とは「出発点(起点)」をから「遠ざかる」ことでもある。
 「遠ざかる」は「忘れてしまう/終わる」ということにつながると思うが、これを「終る」ではなく「始まる」という「動詞」で語りなおしている。
 「忘れる」ということさえ「忘れる」。何を「忘れた」のかも「忘れる」。二重否定。そこから「始まる」。
 この「変化」を嵯峨は次のように言い直している。「比喩」で語っている。短い「寓話」と言えるかもしれない。

納屋いっぱい積みあげられた小麦の山
一匹の野鼠がその下に這り込んだとき
戸外では急にはげしく雨が降りだした

 「降り出した」は「降り/始めた」でもある。
 大事なのは「始める」がそこに隠れる形で反復されているということと同時に、「急に/はげしく」ということばが追加されていることかもしれない。
 「何かが始まる」のは「急に/はげしく」なのである。

8 夜雨

五月になつて
はてしない迂回が始まるだろう
ごそごそとはいあがる池の縁の銭亀
砂利をしきつめた平面のような今日の論理の上を
はげしくたたく夜の雨
街灯を消せば闇のなかに雨の矢もあわただしく消えてしまう

 「はてしない」は「つづく」でもある。それは「ごそごそ」と、つまり「遅い」感じでつづく。だから「亀」という「比喩」がつかわれるのだが、これは「強調」というもの。ほんとうの「比喩」は「ごそごそ」という、言い換えのきかない「動き」そのものだろう。「ごそごそ」はまた「徘徊」の「比喩」であり、「徘徊」は「ごそごそ」の「比喩」でもあるだろう。どこかへたどり着くのではない。だから「はてしない」。そういう具合に、ことばは互いの「意味」のなかを「比喩」のように動く。
 「砂利」と「論理」も似たような関係である。「砂利」が「論理」の「比喩」なのか、「論理」が「砂利」の「比喩」なのか。もちろん文法的には「砂利」が「論理」の「比喩」なのだが、「比喩」が動いているとき、そこには「砂利」そのものがあり、そのあとで「論理」がやってくる。「砂利」を実感しないならば、それは「比喩」になりえない。「砂利」そのものを実感することが、「比喩の意味」を実感することである。
 それは「共同」の関係にあるのだ。

 最終行は、とても美しい。
 ここにも「共同」の動きがある。街灯(光)と雨の矢、闇と雨の輝き。街灯があれば、それだけで雨が輝くわけではない。闇があって、そこに光があるとき、雨の矢が見える。「あわただしく」が非常になまなましく感じられ、それがこの風景を詩に高めているのだが、この「あわただしく」は「亀」の「ごそごそ」が書かれているからこそ印象的になる。
 「亀」は「街灯/雨/闇」の関係の「闇」をどこかで担っている。「闇」の「比喩」になっている。