松尾真由美「香りあるもののささやき」は、ことばの「内部」へ踏み込んでいく。高良勉のことばの動きとは対照的である。
松尾真由美「香りあるもののささやき」は「花」を10の視点からとらえている。一つだけを取り出して感想を書くのは、松尾の「意図」を無視することになるかもしれないが……。
4 insomnia(不眠)
ようやく
ひらく
花の吐息を
誰が聞いているのだろう
この氾濫の秘めやかな香りを察し
なまなましい旋律の糸
絡まりゆく足頸に
躓きの
予感は満ち
あれはいつもの
晴れがましい
誤解と誤謬
眠っていても
眠っていない
そんな硬度がまばゆくいたく
花が開く前に、「呼吸」がかわる。花の開いた唇から「息」が漏れる。「吐息」とあるが、「ようやく」は「吐く」というよりも「漏れる/あふれる」という感じの方が「動詞」としてふさわしい感じがする。
私は思わず「ふさわしい」と書いたのだが。
松尾のことばは、一つのことばが他のことばに「ふさわしい」かどうかをめぐって動いていく。ことばにはそれぞれ「過去」がある。その「過去/歴史」を追いかけている。
ようやく漏れた息(吐息)、それはかすかな音だろう。だから「誰が聞いているのだろう」という問いになる。誰も聞いてはいない。松尾だけが聞いている。ようやく漏れた息の「背景」にはやはり「過去」がある。花だけにしか知らない「秘密」がある。それが「秘めやかな」ということばを誘い出す。「息」に「秘密」を感じている松尾がいる。
花の息なので、そこには「香り」がある。「秘やか」なので、逆に「なまなましい」。「なまなましい」は直前の「氾濫」を言いなおしたものだ。息が漏れるときの「内部」には何かが「氾濫」している。「秘やか」というのは「隠す」という意味でもある。隠そうとするから、それを突き破ってあふれる、漏れる。それが「吐きだされる」。
ここには「絡み合い」がある。反対のものが、花の「内部」で動いている。花はこのとき「ことば」の比喩でもある。
「香り」は「旋律」へと変わっていく。「嗅覚」が「聴覚」へと変わっていくが、「肉体の内部」で「嗅覚」「聴覚」がつながっているように(「肉体」がひとつであるように)、「ことばの内部」もどこかで「融合/混沌」の場をもっている。
その変化の一瞬は「躓き」でもあるし、「飛躍」でもある。「飛躍の予感」といった方がいいかもしれない。
未分節の「混沌」、感覚が「融合」している場というのは「誤解/誤謬の場」であるともいえる。「香り」と思えば「旋律」。それは未分節であるがゆえに「なまなましい」。「嗅覚」「聴覚」、あるいは「視覚」や「触覚」という「肉体」の融合にとどまらず、そこから「誤解/誤謬」という「理性の領域」へまで「なまなましく」踏み込んでゆくのが松尾のことばなのだと思う。
あ、でも、なんだか苦しい。閉塞感がある。その閉塞感が「内部/理性(精神)」をさらに強調するのかもしれない。
どこかに壊れた部分というか、「外部」が侵入してくるようなところがあれば、楽しく読めるかもしれない。「内部」の噴出の裂け目、そこへ「外部」が瞬間的に侵入してくると、破れた壁から突然青空が見える、という感じになるかもしれない。
それでは「濃密感」がなくなると、松尾は言うかもしれないけれど。
![]() | 松尾真由美詩集 (現代詩文庫) |
| 松尾 真由美 | |
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