今井好子「白いちじく」は、「こちらの方が甘いよ」と勧められた白いいちじくを食べるときの詩。
小ぶりの黄緑色のそれは
成熟途中にしか思えない
あえぎの口から芳香が漏れる傍らで
少女の乳房は頑なに慎ましく
沈黙をきめている
今井は少女だった時代を思い出しているのだろうか。
「傍らで」ということばをこういうときにつかうのかどうか、私にはわからない。「傍ら」と言っても離れているわけではない。ひとつのいちじくの描写である。「ひとつ」なのに「傍ら」と書くことで「距離」をつくりだしている。
このために「少女を思い出す」という感じが強くなる。いま現在の「肉体」が、ここにある。その「傍らに」少女だった時代の「肉体」がある。乳房はどう反応していいかわからず「沈黙」している。
「芳香の漏れる口」、何も漏らさず「沈黙」を守る「乳房」。その「守る」を「頑なに」「慎ましく」という。
ぺしりと軸を折り一気に皮をむく
飛び散る濃厚な香り
真っ赤な無数の花 咲かない花
白い乳がこぼれてくる
乱暴にしてはいけない
優しく掌で受け止めて
乳の伝う手で次の皮をむいていく
今井はいちじくの皮をむきながらいちじくになっている。「一気に」が若くていいなあ。いちじくになることが少女の今井を思い出す方法なのだ。
次の連で「思い出す」という動詞は「記憶」ということばになる。
光の記憶を蓄え
甘美な喜びを内包していた
無口な果実
あらわになった白い
しなやかな体躯を
ほとぼりのさめた風が
渡っていく
単なる「記憶」ではなく「光の記憶」。直接的にはいちじくが光を浴びて熟成している(そのいちじくの中にある太陽の恵み)をあらわしている。間接的には今井の少女時代の記憶を語っているだろう。光に満ちて輝いていた少女。「甘美な喜びを内包していた」のは「肉体」か「こころ」か。区別などできない。いちじくと少女の今井を区別できないのと同じである。
比喩は区別できない存在になるときが美しい。
「ほとぼりのさめた風」は、記憶から、現在の時間にもどってきたということだろう。もどってこないで、少女の「肉体/こころ」のままで生きるのが詩だと私は思うが。もどってくるのは「抒情詩」にしたいからかもしれない。
ところで。
いちじくって、皮をむいて食べるもの? 私はあるとき、桃の皮をむいて食べるという詩を読みびっくりしたことがある。梨と柿は皮をむくことが多いが、リンゴはむかない。いちじくはむいたことがない。
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