くりはらすなを『遠くの方で』の「小景」に、次の断章がある。
駅から歩いて帰る途中、不意にカーブミラーが
目に入る。そこには今まで気付くことのなかっ
た路地が写っている。子供の頃よく見かけた、
道路から細く入り込んでいく道だ。こんな所が
あったことに今まで気がつかなかった。同時に
気味の悪さが襲ってくる。そのまま振り返りも
せず歩く。カーブミラーからは鏡文字の様にひ
っくり返ったままの日常がこちらを覗いていた。
「今まで気付くことのなかった」ことを書く。それがくりはらの詩である。それは「不意に」やってくる。そのとき「同時に気味の悪さが襲ってくる」。
どんなふうに気味が悪いか。
「カーブミラーからは鏡文字の様にひっくり返ったままの日常がこちらを覗いていた」。「鏡文字=ひっくり返る」が気持ち悪いのか。あるいは「覗いていた(覗く)」が気持ち悪いのか。それは切り離せない。鏡とは「ものを映す」ものである。「覗く」としても、鏡を見るひとが自分を覗く。しかし、この詩ではくりはらが「覗く」の主語ではない。くりはら以外のひと(日常)がくりはらを覗いている。
ただ、それは「事実」かどうかわからない。「気味」とは「気配」。くりはらが感じるだけかもしれない。「感じる」自分を発見したのかもしれない。
この詩を読みながら、私は、「声」という詩を思い出していた。そこにみカーブミラーが出てくる。
あっちの山から登ってこっちの山を降りてくる
と、くねくねと曲がった林道に出た。民家がひ
とつふたつ離れたところにある。再び曲がった
ところにカーブミラーがあって誰かが立ってい
る。マイクを握って大きな声で話している。み
なさんの生活を、と声は演説をしている。近く
にはその人のものらしいライトバンが止まって
いて、その車の腹の所に政党の名前が大きく描
いてある。聴衆の姿は見えない。家は二軒しか
ないのだから、窓を閉め切ったまま家の中から
覗いているのかもしれない。
「覗く」も出てくる。
「見る」だけではなく、「覗かれる」をくりはらは感じるのかもしれない。「応答」と言えばいいのだろうか。反作用といえばいいのだろうか。何かをすれば、その逆のことが生まれる。
こういう作品もある。「阿佐ヶ谷四丁目の頃」のなかの「階段」。
カーテンを少しだけ開けて外を覗くという癖が
ついていた。道路を挟んだ向かいのアパートに
は細長い鉄製の外階段が付いていて、登ったり
降りたりするたびにガタガタと音をならしてい
た。
その頃私は赤ん坊を抱えどこにも出て行くこと
が出来ずにいた。六畳二間の部屋で身を潜ませ
ていた。
向かいの階段が音を立てている。若い男女が暗
い部屋の小窓で時折見え隠れする。
「覗く」がやはり出てくる。「覗く」という動詞がくりはらの「肉体」に染みついているので、「覗かれる」という具合に反応するのかもしれない。
「向かいの階段が音を立てている」はなんでもない描写のようで、なかなかおもしろい。「覗く/見る」は「目」の働き。「音」聞きとるのは「耳」の働き。覗いていないときも「肉体」は「外」を感じている。「外」に向かって開かれている。「音」を「耳」が聞き取り、そのあと「目」が追いかける。そして「目」で「若い男女」が「見え隠れする」のを確かめながら、今度は「耳」で聞こえない「音」を聞こうとする。「音を覗く」のである。
このあたりの「目」と「耳」の交錯が「覗く」の本質だとしたら……。
演説を「覗いている」ひとは、当然演説も聞いている。聞こえている。でも、聞いているのではなく、ことばを拒否して、見ているだけかもしれない。
カーブミラーに映った「日常」は、単に「覗いている」だけではなく、不意にカーブミラーに気づいたくりはらの「こころの声」を「聞いている」かもしれない。「聞こうとしている」かもしれない。
ここで最初に書いた「気味悪さ」に戻ると。
「目」が目だけではいられなくなる。「耳」が耳だけではいられなくなる。感覚が融合して、「目」で声を聞き、「耳」で姿を見る。そこから「耳」では聞こえなかった声が生まれ、「目」では見ることのできなかった姿が見える。
くりはらの「肉体」のなかで、新しい(あるいは原始の、いのちそのものの)「肉体」が目覚める。それは「頭」ではつかみとれない「気(配)」「気味」となって動く。
詩の形が好きなのかもしれないが、くりはらの書いていることばの運動は、世界を切って捨てる詩よりも、世界とねんごろになる「小説」のような世界の方に向いているかもしれない。詩では「見る」と「覗く」に「耳」がどれだけ深く関係してくるかが描きにくい。短いことばだと、どうしても「図式」になるよう気がする。
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