大橋政人『まどさんへの質問』には「花」が登場する詩が何篇かある。そのうちの一篇の「ハイライト」の部分は「帯び」になっている。
で、「帯び」にならなかった方の「花の温度」を読んでみる。
熱くて
さわれないような
花はない
部屋の温度を
強くしても
花は
熱くならない
花弁に
指でさわると
いつも
花瓶の温度と
同じくらい
花瓶の
水ばかり
飲んでいる
せいだろうか
(一日中
(澄ました顔で
(水の中
一連目、二連目。ふーん、変なことを考える人だなあ、という印象。私は、花が熱いかどうかなんて考えたことがない。だから、ここでは、そうか、そんなふうに見る視点があるのか、という感じ。よく言えば、何も知らないこどもの発想。悪く言えば、こどもっぽさを狙った作為も感じられる。
しかし、三連目で、びっくりした。
えっ、触って確かめたの?
ふいに、花に触ったときの感じが「肉体」の奥から蘇ってくる。確かに「熱い」ということはない。あえて言えば「ぬるい」。人間の「肌」よりは「ひんやり」しているかもしれないが、どれくらい違いがあるか、わからない。人肌は「熱い」ときもあれば「ひんやり」しているときもある。その「温度」といっしょに、花びらの「つるつる」「しっとり」という感じも思い出すなあ。でも、この私の「感触」は「思い出したもの」であって、実際に、いま、花に触って確かめたものではない。
触ったあと、大橋は、こう言いなおしている。
いつも
花瓶の温度と
同じくらい
そうだなあ。「花瓶と同じくらいだろうなあ」と想像できる。納得できる。その「納得」が「空想の肉体/肉体の空想」を刺戟して、それでおしまい、かというと、そうではない。
いつも
うーん。「いつも」か。もちろん、大橋は毎日触ってたしかめているわけではなく、たまたまその日、花に触り、花瓶に触り、また花に触るという「繰り返し」をしてみて、「繰り返し」のなかで起きる感じが変わらないので「いつも」と言っているのかもしれないが。
で、この「いつも」は単に「過去」(繰り返された時間)だけのことではなく、これからつづく時間を含めて「いつも」なのだと、私は直感的に感じる。
触って確かめたのは、ついさっきのことなのだけれど、その確かめたことは、これからも「いつも」、つまり「永遠」にかわらない「事実」なのだ。
ここに「永遠」がある。
一連目に書いていることは「思いつき」。いわば、頭でも書けるかもしれない世界。それが三連目で「永遠」に変わっている。そして、そのとき「指でさわる」という具合に、実際に「肉体」が動いている。「肉体」が「永遠」に参加している。「花」だけが「永遠」になるのではなく、「肉体」そのものが「永遠」になっている。「花/肉体(指)」がひとつになって、そこに存在している。
いいなあ、この三連目はいいなあ、と思わず「いつも」の三文字を丸く囲みながら(傍線では何かを逃がしてしまいそうと感じながら)、また読み直すのである。
四連目以降は、つかみ取った「永遠」を「別の角度」からととのえなおしている。「頭」でととのえなおしている。でも、そんなに「頭」「頭」という感じ、うるさい感じがしないのは「指で触る」という具合に実際に「肉体」が動いたことを知っているからだ。「肉体」が共鳴するからだ。
さらに
水ばかり
飲んでいる
と、ここにも「飲む」という動詞があって、それが「肉体」を刺戟してくるからだ。「水を飲む」ということを、私は知っている。「飲む」という「動詞」に誘われて、私は水を飲むときのことを思い出す。「花」が「主語」なのに、その「花」と私の肉体が重なる。あるいは、入れ代わる。
「触る(セックスをする)」とは「肉体」が入れ代わること。自分と相手の区別がなくなること、とは、瀬崎祐『片耳の、芒』で書いたことだが、この作品でも、それに通じることを感じる。
四連目で大橋は、「花」になって水を「飲んでいる」のである。
だから、
(一日中
(澄ました顔で
(水の中
これは「花」の描写ではなく、「自画像」でもある。「水の中」に花が咲いているわけではないから、「現実」ではない。空想。この「空想」というのは「肉体」という「現実」に対しての便宜上のことば。一般的なことばで言えば「心象風景」ということになるかもしれない。「こころの中の風景」、あるいは「こころの風景」。
私は「こころ」というものの存在を信じていないのだけれど、こういう行(こういう具合に進んできて動くことば)に触れると、「肉体」のなかに「こころ」がある、「こころ」は「こころの風景」を生きていると考えるのもいいなあ、と思ったりする。
おっ、美しい、と思わず声が洩れてしまうのである。
私は、この作品は、ここで終わってもいいのじゃないかなあ、と思う。
ところが、このあともう一連ある。
熱いのか
寒いのか
気もしれないから
着物も
着せられない
最後の語呂合わせ(私は苦手だ)がうるさい感じがする。せっかく「こころ」で終わったものを、「頭」へ引き戻す感じがする。
この詩集は『まどさんへの質問』。まど・みちおを意識している。私はまど・みちおを読んだことがない。「ぞうさん」の歌くらいしか知らない。でも、まど・みちおなら、きっと最終連は書かないだろうなあと思う。知らないまど・みちおと大橋を比較してもしようがないのだが(単なる想像になってしまうのだが)、最後に「頭」で「けり」をつけるかどうか、という部分が大橋とまど・みちおの大きな違いかもしれないとも思うのだった。
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