林嗣夫「花」の全行。
さきほどから
一匹のアゲハチョウが
庭のあたりを ひらひら
小さな風に揺れるヒオウギの花に
止まろうとして 止まりそこね
やっと取りついたり
花の終わったアジサイの
あの葉 この葉を
何か探してさまよったり
と、急にふうっと飛び上がり
門の近くの垣根の茂みを向こうへ越えた
向こうに何が?
何がって
そこから先はただの道 乾いた道
しかし……
蝶が 意を決したように身を翻し
風に押し揺られながら向こうへ越えた時
その行くてに
ひとつの鮮やかな花の実在を
わたしはたしかに 見たのだが
最終連、「実在」ということばが出てくる。「花を/見た」ではなく「(花の)実在を/見た」。
「実在」というようなことばを、私は疑ってしまうのだが、この詩では不思議とすっと「肉体」にしみこんできた。「花を/見た」だったら、たぶん、夏の終わりのありふれたスケッチとして読んだだろう。感想を書く気持ちにならなかっただろう。
なぜ、「実在」が「肉体」に迫ってきたのだろう。
四連目の「向こうに何が?」の「何が?」という問いかけが、たぶん、この詩の「中心」なのだと思う。「何が?」というとき、その「何」は「わかっていない」。「わかっていない」けれど、それが「何」ということば、さらに「何が?」という「問いかけ」としてしか、いま、ここに「あらわれてこない」ものだとわかっている。「何が?」と問いかけたとき、その問いかけに答える形で「何か」が「あらわれている」。林は、すでに、このときに「何か=実在」を見ているのである。つかみ取っているのである。
そして、この「何か」をつかみ取っているとき、林は林ではない。垣根の「向こうへ/越えた」蝶である。
六連目「蝶が 意を決したように身を翻し」という行がある。「意(精神/こころ)」と「身(肉体)」が一体になって動いている。「意を決する」と「身を翻す」が「ひとつ」なのである。それは「身を決する(肉体をある向きに動かす、その始まり)/意を翻す(気持ちを別な花に向ける)」と言いなおすことができる。「意」とか「身」、あるいは「決する」「翻す」は、「意味」を固定化できない。つまり、相対化もできない。これが「意」であり、これが「身」である。これが「決する」ということであり、これが「翻す」ということである、と固定できない。その「両方」である。「一体」になっているものである。その「一体」になったものに、林自身がなっているのである。
それって、いったい何?
そういう疑問が必然的に出てくるが、このときの「何」と「向こうに何が?」の「何」が、ぴったり重なる。「なに」としかいいようのないものが「何」なのである。
「向こうにある何か」は「意を決したように身を翻し」た蝶が見た「何か」なのである。その「何か」は、蝶を「意を決したように身を翻し」ということばで林が追いかけるときに見える「何か」であり、そのとき林は知らずに、蝶になって「意を決したように身を翻し」ているのである。
その「何か」。
それは「花」ではない。垣根の向こうには「ただの道 乾いた道」しかないのだから、それは「花」ではない。しかし、「花」でないことによって、「花の実在」なのである。「花」ではなく「花の実在」というものがある。
その「花の実在」とは、それ以前に書かれたヒオウギとかアジサイ、さらには「ただの道 乾いた道」が「世界」としてあらわれるとき、その全体が結晶するときに、瞬間的に「あらわれ」、同時に、「世界」を構成するすべてのもののなかに散らばっていくものなのである。「花の実在」は、あらゆるところに「見えている」。あらゆるところに「見えている」から、それは「花」の形にはしばられない。「ヒオウギ」「アジサイ」「垣根」「道」という具合に、「世界」を「分節」しても無駄である。さらに「蝶」「私(林)」という具合に「世界」を「分節」しても無駄である。そういうことをすると消えてしまう。見えなくなってしまう。「分節」することをやめ、「何?」ととうとき、その「何」のなかに「何」としてしか言いようのないものとして「実在」が生まれてくる。あらわれてくる。
この瞬間、林が「実在」するのである。林が「詩/実在の花」になるのである。
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