服部誕『おおきな一枚の布』は、ことばの動きが散文的である。事実を積み重ねてく。飛躍が少ない。たとえば「阪神電車から見えるちいさい家の裏窓」。
大阪と神戸を東西に結ぶ阪神間の鉄道は
北の六甲山系の山裾から南の大阪湾沿いへと順に
阪急・JR・阪神の三路線が平行して走っている
これは、描写か、説明か、ちょっと区別がつかない。「北から、南へ、順に」の「順に」というのは、私の感覚では「描写」ではなく「説明」だなあ。「事実」をととのえて、わかりやすくするためのことばだ。
服部は、たぶん「わからなくてもいい」という気持ちになったことがないのだと思う。それは、自分の気持ちが他人に「わからなくてもいい」というだけではなく、他人の気持ちが「わからなくもいい」とはちっとも考えないということ。言い換えると、いつも他人の気持ちをわかろうとしている。それも、ただ「わかる」だけではなく、その向こう側、他人が「わかってほしくない」と思っていることまでも「わかる」というところまで進んでいく。そして、たぶん、その「隠していること」をつかむことを「ほんとうにわかる」と思っているのだろう。だから、その「隠していること」をことばにする。
目で「世界」を見るだけではなく、「目」以外のもので、見えたものを「ととのえる」、「ことばにする」。
さきに引用した「順に」というのも、ほんとうは隠していることなのだ。ただ三本の線路が走っているだけなのに、そこに「北から、南へ、順に」という「秩序」も、それが「平行」であるというのも、「肉眼」では確認できない。目で見たものを、頭の中で整理し直す、たとえば「地図」に書き込んで整理し直すことで、「目に見えるようになる」。「目」で見たのではなく、頭で「目に見えるようにした」世界に服部は住んでいる。
肉眼では見えない「秩序」を導入することで、その「世界」を「分析する」と同時に「固定化する」。あることがらを「分析し」、ととのえて「固定化する」ことを「説明」というのかもしれない。
くどくどしく書いてしまったが、作品の三連目、阪神電車と家並みの描写を読むと、そういう印象がいっそう強くなる。電車のなかから風景を眺めていると……。
狭い裏庭や軒先の物干し竿には家族構成の窺える洗濯ものが干されている
どれも近所づきあいのなかではことさら見せあわないものばかり
その家の住人はちゃんと匿していると思っているのだろう
電車が日に幾度となく通過しても誰にも見られてはいないと思っている
通過しているのは阪神電車の車輛であって
住んでいる人にその乗客は見えないのだ
洗濯物。大きいシャツ、小さいシャツ、男物のパンツ、女物のブラウス。そういうものは「肉眼」で見える。けれど、「肉眼」では「家族構成」は見えない。けれど、服部は、そこにある秩序を発見し、「家族構成」を見る。さらには、その家に暮らしている人の「こころの動き」まで、「見てしまう」。
その「見たもの」、つまり、ことばでととのえなおした「世界」は、もしかしたら「誤読」かもしれないが、服部は「誤読である」と指摘されないように、ていねいに書いている。
でも、私は、こういうことばを読んでも、少しもリアルには感じない。言い換えると、こういうことばを読んでも、描写とは感じられない。「説明」としか思えない。だから「わかった」という気持ちにもなれない。
あ、こんなことを書いていると、なぜ、この詩を取り上げて感想を書いているか、わからなくなるかもしれない。
私は、このあとの、説明が終わったあとの部分で思わず傍線を引いたのだ。
説明はさらに、
阪神・淡路大震災で全壊するまで おまえの父母は
そんな線路ぎわの騒音と振動が絶えなかったちいさな家で暮らしていた
と続くのだが。(先に「説明」されていた「住人」は、ここで「父母」になって生きているのだが。)
そのあと、
毎年一月十七日になるとおまえは
大阪梅田から阪神電車に乗って両親の墓参りにでかける
あの日 地震の揺れを堰き止めたたくさんの川
新淀川神崎川庄下川蓬川武庫川夙川宮川芦屋川住吉川石屋川都賀川新生田川
電車はそれらの川をやすやすと渉り
しだいに震度をあげながら神戸三宮へと近づいていく
十二本の川の名前が一気に書かれ一行。
そこには「東から、西へ、順に」ということばはない。「順に」という、世界をととのえることばがない。だから、この一行では、川のすべてが、「順番」をもたずに、つまり「相対化され」、同時に「固定化」されずに、目の前にあらわれてくる。それを見るとき、その流れが「川」になり、名前になる。そして、また「名前」を失う。「名前」はあるが、それは、その川を語るときにその名前があらわれてくるだけであって、いつでもその名前であるわけではないのだ。(と、書いてしまうと、何か違うことを書いてしまっているという気持ちになるが。)
「川」ではなく「家」を見ればいいのかもしれない。地震によってこわれた一軒一軒の家。そこに住むひとは、それぞれに名前があって、別々の人。しかし、そこで芯でいった人を思うとき、そのすべての人は「父母」である。「父母」であって、またひとりひとり別な人間。それが、一気に、目の前にあらわれてくる。それは「頭」でととのえ、順番に並べ直すことのできないものである。
川は「順番に」書かれているかもしれない。しかし、そこに「順に」ということばがないことによって、「順」を失っている。「順」を無視して、それぞれが、その一行のなかに同時にあらわれてきている。便宜上上から下へ川の名前がならべられているが、そこには「順」はない。
引用の最後の一行「しだいに震度をあげながら神戸三宮へと近づいていく」は三宮に近づくに従って、その「震度」が強くなるのを感じながら、三宮の方が梅田よりも震度が大きかったのだということを思い出しながらということだろう。そうすると、そこには一種の「順序」が「しだいに……あげながら」という形で書かれているのかもしれないが、あの一行には、「順」を感じさせる「差」がない。すべてが密着している。くっついてひとつになって、同時に、瞬間瞬間に、固有名詞として噴出してきている。
その強烈さに、私は、何度も何度も、その知らない川を、川の名前を読み直してしまう。
被災者の名簿を読むとき、そこに書かれているひとりひとりが、自分の肉親ではないかと感じるように。強く、肉体そのものを揺さぶられる感じだ。
こういう「無秩序」としての「現実」がもっと書かれれば、ことばはさらに強靱になると思った。
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