颯木あやこ「耳鳴り」 | 詩はどこにあるか

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颯木あやこ「耳鳴り」(「交野が原」81、2016年09月01日発行)

 颯木あやこ「耳鳴り」は、「耳鳴り」が出てこない部分が、私にはおもしろかった。

わたしは 海を探している

見て、
この胸をまっすぐ貫く
竜骨

三度 抱かれ
三度 溺れ
三度 沈んだが

そのたび
わたしのからだは 船へと進化
ついに まっ白な帆が生え 金の竜骨が張りだした

波が逆巻く あなたの心
しずけさ 横たわる あなたのからだ
ふかく冷たく青い あなたの思想
ああ
ときにあたたかな海流が わたしを抱いて放さない

 恋をするとは、自分をすっぽりと受け入れてくれる海のような広大なものを求めることなのか。
 引用一行目の「海」は具体的な(実物の)海かもしれないが、二連目の「この胸をまっすぐ貫く/竜骨」によって比喩になる。「竜骨」という比喩が海を比喩にしてしまう。
 この、ことばが影響し合って動いていくすぴドに、とても強い詩を感じる。
 特に「まっすぐに貫く」。ここに「強いもの」がある。「貫く」は、突き通す。「貫通する」だが、そのとき「貫通する」のは「もの」だけではない。「意思」のようなものが「貫通する」。「初心を貫く」ということばがある。「こころ」が「胸」を貫く、「こころ」が何かをやり遂げる。「竜骨」は、その「貫通する」を「名詞化した比喩」であり、「貫く」そのものなのである。
 その比喩のあとの、「三度」の三行が、「動詞」だけで構成されているのも強い。「胸」ということばに影響されて「意思/思い」から書き始めてしまったが、「思い」など、どうでもいいのだ。「胸」は「思い」の「比喩」ではなく、まず「胸」という「肉体」そのものなのだ。みなぎる乳房なのだ。その「肉体」が最短距離で動いている。「感情(思い)」も「感覚」も描写しているひまなどない。ただ、「動詞」だけを書く。この「神話的」なスピードそのもののなかに「恋」の強さがある。「本能/欲望」の、まじりけのない輝きがある。
 このあと、「こころ」ではなく、「肉体」そのものが、かわる。この「変化」を颯木は「進化」と呼んでいる。「船へと進化」。この「進化」は「名詞」だが、実は「進化する(した)」というの「動詞」である。「動詞」なのだけれど、「進化する(した)」というと「ことば数」が多くなり、スピードがもたもたする。だから「進化」と「体言止め」にしてしまうのだ。ことばを省略して、さらに先へ先へと進む。「胸」を「貫く」激情に身を任せ、疾走する。
 「竜骨」にすぎなかったものが「船」(これはボート型のもの)になり、それから「帆船」へと変わっていく。このときの「動詞」、「生え」も強いあ。「肉体」を突き破って「肉体」のなかから「帆」が生まれてくる。颯木が、いろいろなものを集めて帆をつくるのではない。「肉体」が帆を(当然、マストも)「生み出す」。それは「肉体」が「帆」に「なる」という「自動詞」でもあるのだ。さらに「竜骨」は成長し、「金色」に輝きながら、ぐいっと胸の先に張り出していく。その「竜骨」を追いかけるように、颯木の「肉体」は恋を追いかけていく。

 「肉体」が「帆船」に変化してしまったあとで、やっと「こころ」とか「思想」とかというものがやってくる。そこに「逆巻く」「しずか」「よこたわる」「ふかく」「つめたく」「青い」などのさまざまな「形容詞」があつまってくる。「恋」が「見つけ出す」いろいろなものがあつまってくる。
 これは、すべて「まっすぐ」な「肉体」が磁力で引き寄せる世界である。
 若い肉体の、傲慢な(?)強さが、美しく、まぶしい。

 颯木の書きたいのは「耳鳴り」のなかもしれないが、私は「耳鳴り」以外の部分を、ひたすら自分の読みたいように「誤読」するのである。きのうは岡島弘子の詩を通した「女子中学生のどきどき」にどきどきしたが、きょうは颯木のはち切れそうな「肉体」に「恋する女の自信」を感じ、あ、この若い肉体になって恋したいと思うのだった。
七番目の鉱石―seventh ore
颯木 あやこ
思潮社