松岡政正則「こえがれ」には、わからないところがある。そして、それが魅力的だ。「わからない」ところへ誘われてしまうのだ。
忍耐はない
性癖は治らない
ともだちはいない起立しない
「声帯萎縮です」と医者はいう
「しゃべらないでいると退化するのです」という
誰かのことをみなでうすく笑っている
わたしもお國も取り返しのつかないところにいるらしい
錆びたトタン波板の外壁
みかんの花咲く島で暮らすことになりました。
「声帯萎縮」というものがあるかどうか、私は知らない。声帯が縮んで、声が出にくくなる。それが「こえがれ」(声嗄れ)だろうか。実際の「声」ではなく、「ことば(もの)」が言いにくい、という状況かもしれない。何かを言おうとすると(あるいは言ってしまうと/行動すると)、誰かが(ひとが)冷笑している。
たとえば、「君が代」をみんなが起立して歌うとき、歌うことを拒否して椅子に座ったままでいる。そういうことをひとが「うすく笑っている」。
以前は言えたこと(主張できたこと)が、主張できなくなっている。「声が嗄れた」ようになっている。
「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」とは、現代の日本の状況か。何かを言おうとすると、言えない。それは「わたし」にとっても取り返しのつかない状況だろうが、「国(松岡は、正字で「國」と古めかしく書いている)」にとっても取り返しのつかないことなのではないか。
そんなことを思いながら、ひとから離れて「みかんの花咲く島」に引っ越したというのだろうか。
少し唐突な、そしてだからこそ、何か切羽詰まった感じのする「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」は二連目で言いなおされている。
過剰な接続で
誰しもが疲れている
くろいフレコンバッグと貧困世代
わたしらは知っている
知っていてなにもしないでいる
ひとがひとを信じるとはどういう刹那をいうのだったか
モノになっていくわたしら、
「正気」が保てなくわたしら、
憲法にまもられた時代は終わりました。
もうどんな顔でいたらいいのかわかりません。
「知っていてなにもしないでいる」とは「知っていて何も言わないでいる」だろう。「しない」は「言わない」なのだ。
いや、「言わない」でも「言う」ことができる。たとえば、「君が代斉唱」のとき「起立しない」ということができる。そういう「ことば」を発しない瞬間にも、「ひとがひとを信じるとはどういう刹那」というものがある。「行動」が「信じる」に繋がっていく。そういう「行動」の「ことば(声)も失くしている。
いま、ひとは「声(ことば)」を失くし、「正気」を失くし、「モノになっていく」。
もう、ひとが「憲法にまもられた時代は終わりました。」と感じている。これは「私もお國も取り返しのつかないところにいるらしい」をもっと直接的に言いなおしたものだろう。
これを松岡はさらに言いなおす。
いみには約めない
歩くの成熟はもとめない
ない、という力
しらない、という歓び
所有する、がひとをダメにする
爆心地の方からなにかくるいっぱいくる
雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい
わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい
しぐさ振る舞いにも感情はあるのです。
「いみには約めない」は「意味には縮めない(要約しない)」ということか。
私のこの感想は「意味」に「要約」してしまっているので、松岡の書いていることに反してしまうが、「意味」に要約してしまってはいけないことがある。
詩は、その「要約してはいけない」もののひとつである。
「意味」は解放したままにしておかなければならない。
わかっているつもりだが、もうしばらく、「要約」をつづけよう。わからないものを、わかったふうに装って、近づいていこう。「誤読」をつづけよう。
「歩くの成熟はもとめない」とは「成長は求めない」と言いなおすことができるかもしれない。「成長」とは「経済成長」のことである。「モノを大量に所有できる」という形での「成長」も求めない、ということかもしれない。「成長」が強いてくる何かを「拒絶する」ということかもしれない。
「ない」には、たしかに力がある。
「起立しない」の「ない」は「意思」の力である。
「爆心地の方からなにかくるいっぱいくる」の「なにか」はことばにできないなにか、ではない。ことばにする「必要がない」何かである。二連目に書かれていた「わたしらは知っている」の「知っている」何かである。「知っている」は自分の「肉体」になっている何かである。そして、そういう「知っている」が出会うとき、「ひとがひとを信じる」ということが起きる。これは、ことばにする必要は「ない」。
「雨が上がったらしばらくはこわれて歩きたい」の「こわれて」は、ことばを持たないまま、「意味」に要約しないで、「肉体」そのものになって、ということだろう。
「わたしを脱ぎ散らかしながらくるくるとまわってみたい」は「意味」を放棄して、拒絶して、「無意味の肉体/意味に汚染されない純粋な肉体」になって、ただ動きたいということだろう。
「ことば/声」だけに「意味」、あるいは「感情」があるのではない。「肉体」そのものにも「感情(意味に要約できないこころの動き)」というものがある。
最近の松岡は、台湾を旅行し、そこに暮らすひとの「肉体」を反復し、「声」に寄り添う詩を書いてきた、という印象が、私にはある。そうすることで「声帯の領域」を広げてきた。「声」そのものを魅力的にしてきた。
いま、広島で、「国家」が求める「声」とは違う「声」を鍛えようとしている、と感じた。こういう「誤読(要約)」は松岡の詩の深みをないがしろにするものかもしれないが……。
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