大木潤子『石の花』はタイトルなしで断片が散らばっている。最初の方は後半に比べると幾分長い。
闇が、
寄せたり引いたりする、
思いがけない方角から、
別の闇も寄せて、
複数の闇が、
網目の模様を描く向こう側から、
音楽が、 (13ページ)
幾分長くて、少し意味ありげである。「思いがけない」「別の」「向こう側」というような、「いま/ここ」とは違うもののあり方が「意味」を感じさせる。「意味」とは「いま/ここ」が否定されて、「いま/ここ」ではなくなる瞬間の、その再構築のことだと、ここから「定義」することができる。
で、その「再構築」が、ではいったい何かというと、しかし、明確にはわからない。ここでは「音楽」という「名詞」で提示されているものが「意味」に輪郭を与えている。ただし、そこには「動詞」がないので、はっきりと「意味」になっているかどうか、私には判断しかねる。
これを「暗示」と言いなおすことができるかもしれない。
なんと言いなおしても、それは単なる言い直しかもしれないが。
それよりも、やはり「思いがけない」「別の」「向こう側」ということばが抱え込んでいるものを見つめなおした方がいいだろう。それらのことばは「いま/ここ」から「いま/ここ」ではないところをめざして動いている。その動きの、ベクトルの先に、何かを描き出そうとしている。その「何か」へ向かって収斂しようとしている。あるいは凝縮しようとしている。
石を結ぶ
石を結んでゆく
わたしは結ばれた石。 (19ページ)
この「結ぶ」が「収斂/凝縮」ということでもある。「収斂/凝縮」と私が呼んだものを大木は「結ぶ」という動詞で言いなおしている。
石のなかに
また
石がある
重さを
増して
「増す」という動詞は「結ぶ」に通じるかもしれない。「結ぶ」ことにより、たしかなものになる。そのたしかさを「重さ」と言いなおしている。(「軽い」は不安定に通じる。)それが「増す」、「増える」、いっそうたしかになる。
「収斂/凝縮」は「結晶化」と言いなおすこともできるし、純粋化ともいうことができる。
これが、
石を読む (61ページ)
という一行だけの断片のあたりから、少し様子が違ってくる。「いま/ここ」ではないどこかが「石のなかに」という「内部/結晶/凝縮」とは違った動きが出てくる。
石の鳥、
石の羽毛、
石の鼓動
石の
花が開く、
石の名前 (73ページ)
「開く」は「結ぶ」とは逆の動きである。「石の鳥、/石の羽毛、/石の鼓動」はまだ「収斂/凝縮」である。「石の花」も「収斂/凝縮」であると言うことができる。「収斂/凝縮(結晶)」は、こういうとき「象徴」と呼ばれたりする。つまり「意味」が、まだここでは動いているのだが。(先に引用した「わたしは結ばれた石」というのは「石」が「わたし」の「象徴」である、ということだ。「意味」だ。)
そこに「開く」という動詞が新たに加わることで、ベクトルが、まったく違ったものになっている。
何かに向かって「収斂/凝縮/結晶」するのではなく、それを「開く」、つまり「開放する」ことになる。
「いま/ここ」からどこかへ動いていくのではなく、「いま/ここ」にいて、「いま/ここ」そものが動くのである。
ここからが、この詩集のハイライトである。
目覚めても、 (81ページ)
石が
語る (83ページ)
石の
言葉 (85ページ)
何も言っていない。何も言っていないというと大木に申し訳ないが、ここでは、ベクトルが「収斂」していかない。収斂(凝縮していたもの)が、ただ開放され、それがどこへゆくかは、読者に任されている。
ほ、とける ( 113ページ)
という不安定な「音」を通って、「凝縮/収斂」が「ほどかれていく」。「ほどかれる」だけではなく、それは「とける(溶ける/解ける/融ける)」。「融合」へまで動いていく。
何と「融合する」のか。
それは一番大事な問題だが、それに対する「答え」はない。なぜないかというと、「答え」というのは、ひとつの「収斂/結晶」だらかである。それを書いてしまうと、「ほどいた」ことが何にもならなくなる。
座標が
ない ( 143ページ)
石の花 ( 147ページ)
咲く ( 149ページ)
「座標が/ない」の「ない」という「動詞」(というか、用言)がすべてであり、そこで「開く」は「咲く」と言いなおされている。
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