中井ひさ子「甕」の前半。
台所の片隅から
蓋つきの甕が出てきた
うすく積もったほこりを払う
蓋を開けると
甲高い声が飛び出した
入れるものがないのなら
考えなしに買うんじゃない
空っぽの寂しさは
骨身にしみているくせに
さて、この「甲高い声」というのは何だろう。「甕」の叫びである。しかし、甕はものをいったりしない。でも、中井は、その声を聞いた。それは中井にだけ聞こえる声。ということは、それは中井の声かもしれない。
で、
骨身にしみているくせに
この一行について、私は考えるのである。「骨身にしみている」とは別のことばでいうとどうなるか。「知っている」である。「骨身にしみて知っている」という具合に重複してつかうこともある。「骨身」は「肉体」、「肉体」にしみている。「しみる」は中まではいっている。あるいは「中身」そのものになっている。切り離せない。
こういうときの「知っている」は「おぼえている」でもあるなあ。
「おぼえている/知っている」、でも、ふつうは口に出しては言わない。そういうことが、ふいに「肉体」の奥からあふれてきた。
「甕」が中井の「肉体」と重なった。
ことばが先に重なったのか、「肉体」の方が先に重なったのか。区別がつかない。けれど、その「甲高い声」は「甕の声」であり、その「甕という肉体」は「中井の肉体」でもある。
このあとも、「知っている」声が聞こえる。声に出さなかったけれど、「肉体」のなかで叫びつづけた声「おぼえている」。それを思い出してしまう。
何とかせんと
こんなことしていたらあかん
あんたの
流し台での独り言
いやというほど聞かされた
これは「甕」が話していることになっているけれど、中井が言いつづけたことばなのだ。「何とかせんと/こんなことしていたらあかん」と台所で、自分だけに、声に出さずに何度も言い聞かせた。そんなことを思い出している。こういうことはだれにでもあることだから、こんなふうに中井の姿を想像するのは、実は私自身を思い出すことでもある。
なのに
どうして
あんたは甕の気持ちに
知らんぷり
その上
台所の隅っこは
けっこう冷たい風が吹く
ここが、とてもおもしろいなあ。
「空っぽの寂しさ」とか「こんなことしていたらあかん」というのは「気持ち」になりすぎていて、それが「意味」の押し売りのようにも聞こえる。つまり「同情」を誘う。「同情」を強要する、強要されたという感じにもなる。
そして、その「同情」というか、「同情の対象」(寂しい/こんなことしていたらあかん)というのは、中井だけの「気持ち/意味」ではなく、私なんかも「わかる」、つまり「自分の中におぼえている気持ち/意味」なので、ちょっと「べたっ」とした感じにもなる。この「べたっ」が「よくわかる」と思うときもあるが、「うるさくていやだなあ」と感じることもある。「感情」というのは、知っている(わかっている)だけに、面倒である。
それを、ぱっと吹き払う。
台所の隅っこは
けっこう冷たい風が吹く
というのは「感情」ではなく、「事実」。すきま風が吹くからねえ。こういうことも「肉体」がおぼえていること、知っていること。
「感情」のあとに、こういう「事実」が書かれると、「感情」のしつこさがぱっと消える。思わず、笑い出してしまう。
で、そのとき。
ちょっと前にもどるのだが、「知らんぷり」と、そこに「知る」ということばがある。「知る」という動詞があるところがおもしろい。「知っている」をつきはなしている。「知っている」のに「知らない」ことにする。そこに、ちょっと、生きていく「力」のようなものがある。
甲高い声は止まらない
次の日
この甕しゃべります と
三千円で売りにだした
ここでは、もう「感情」は完全に吹っ切れている。「寂しさ」あるいは「かなしさ」のようなものが、「笑い」になっている。
「えっ、しゃべるんですか? でも、なんてしゃべるの?」「買ってみれば、わかります。買わないと、わかりません」
そんなやりとりがあるわけではない。
ただし、この詩を読んだひとには、「この甕しゃべります」は、とてもよくわかる。なぜわかるかというと、どんなふうにしゃべったか「知っている」からだ。
この詩には「知っている/わかっている」ということばが省略されている。「知らんぷり」という複雑な否定の形が隠されている。そのために、逆に、こういうこと「知っている/おぼえている」という感じる。「わかる」「わかったこと」が「骨身にしみる」。
あ、私の感想は「しゃべりすぎた」かもしれない。
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| 中井 ひさ子 | |
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