板垣憲司の詩を読んだことがあるかどうか、記憶にない。たぶん初めて読む。
土と、崩れた 痣の葉が、こぼれ
磨りガラス、の向こうには 廃瓶と、
義足が
ブラインドの位置に、映っていた
二人が、 労りあった
あの「駅」だ
駅の思い出が書かれているだろう。「磨りガラス」「廃瓶」「義足」ということばのつながりには、何か古い「マンガ」の世界を見る感じがする。1970年代のザラザラした紙に印刷された「マンガ」に出てくる「小道具」という感じ。タイトルの「渚」が「抒情」になってしまっている。
読点「、」と字空き(空白)は「存在」を孤立化(断片化)させて印象づけようとしているのだろうけれど、よくわからない。
ただ、
呼応して
去り、黄緑色に発出するから
その記憶の位置へ躰を傾けた
艸の、燃える 前に立っている
額を 染めて夕陽がおちてくる
渚、は
誰が見詰めたのか、呼び戻した?
の「呼び戻した」には「肉体」を感じた。渚を見つめた記憶が、渚を目の前に呼び戻す。「誰が見つめたのか」の中には「二人」のうちの「私」がいるのはもちろんだが、「誰が」とことばにすると「私ではないもうひとり」を刺激する。
ここに渚がある。それは単なる渚ではなく、「もうひとり」が見つめた渚である。そして、それが「呼び戻されている」。そのとき、当然のことながら渚を見つめる「もうひとり」の肉体(視線)そのものが呼び戻されている。
それが、なまなましい。
とはいうものの。
妙に古くさい。もっと「新しいもの/こと」がほしいなあ、と思う。
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