稲田防衛相は、かつて次のようなことを言っている。
「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」。これがずっと自分の生き方の基本。
出典があるらしい。
「多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかりを見てゐて、その道徳的、宗教的意義を理会(理解?)しない。(中略)肉体の無と、大生命への帰一とが同時に完全融合して行はれるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは、地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとつては耐へ得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。」(戦前版『生命の實相』第十六巻、二四六~二四七頁)
以上、
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=673825566101611&set=pcb.673825732768261&type=3&theater
から。
稲田の発言は、二つの問題点を持っている。
(1)内容そのもの。「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」というのが「真実」かどうか。
(2)その「理想/思想」と憲法、つまり稲田の職務との関係。
(1)についていえば、人はどんな思想をもとうと自由であると私は考えている。稲田のように私は考えないが、稲田がどう考えるかは稲田「個人」の問題である。ほんとうにそう思っているのだったら、戦場へ行って「宗教行事」に参加してください。実践してください、としか言えない。
もちろん、私はそういう「思想」の持ち主ではないので、戦場にはゆきたくない。
(2)は、少し込み入るのだが。
「戦争が宗教行事」であるのなら、「宗教」を理由に、戦争へゆくことを拒否できるのか、という問題が生じる。「宗教/信教」を理由に、拒否できるのなら、稲田が防衛相であっても、私はかまわないと考える。(その場合、たくさんの兵役拒否者が出るだろう。)
しかし、「宗教」を理由に拒否できないとしたら、憲法との関係はどうなるのか。
現行憲法では「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第十九条)「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第二十条)とある。
自民党憲法改正草案では、「思想及び良心の自由は、保障する」「信教の自由は、何保障する」となっている。
「侵してはならない」が省かれ「保障する」に、さらに「何人に対しても」が省かれる。この改正草案のもとでも「宗教」を理由に兵役を拒否できるか。
私は疑っている。
「侵してはならない」と「国への禁止」を省いた段階で、国は「国の理想とする宗教」のみを「保障する(守る)」と言っているに等しい。(これは、すでに何度も書いてたので省略。)
稲田が防衛相になり、軍隊に関与するようになると、そのときの「理想の宗教」は「戦争は宗教行事」ととらえる宗教になり、それ以外を信じることが拒絶される。「私の信じている仏教(キリスト教/イスラム教……)は戦争を宗教行為と認めていないので兵役を拒否する」という主張はできないくなる。兵役拒否という形で自分自身の宗教を守ることができなくなる。
「何人に対しても」とは宗教の多様性に配慮したことばだが、改正草案では、その多様性が取り除かれている。多様性を認めないということは、「ひとつ」のものの押しつけにつながる。したがって、そこには「信教の自由」というものはない。
あるのは「国が進める宗教を信じるなら、その宗教を保障する」という一種の強制である。
稲田の発言を、単に「異様」と切り捨てるのではなく、改正草案下ではそれはどう動くのかということを私たちは考える必要があると思う。私たちは(私はもうすでに老人だから、その恐れは少ないが)、やがて稲田の信じる「宗教」を押しつけられ、戦争に駆り立てられ、それを「霊魂の進化」と定義されるのである。
安倍は改正草案を先取りする形で、どんどん「既成事実」を増やしている。
稲田の発言も、その「先取り実施」というものを含んでいる。
見かけは「信教の自由」と言っている。しかし、実際は「戦争を宗教行事」ととらえる宗教しか許されない国がやがて生まれる。「霊魂の進化」という「名目」で殺し合いをさせられ、死んでゆくのである。
このままでは。