藤井晴美『グロッキー』 | 詩はどこにあるか

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藤井晴美『グロッキー』(七月堂、2016年07月20日発行)

 藤井晴美『グロッキー』の後半に「蠅」シリーズがある。どれもおもしろいが、短いものの方が印象的だ。

 音も立てずその物は降り立ったのだ。彼はそれに内破され、新たに吐瀉するため攫われ、昇天するのだ。

 「その物」とはなにか。「彼」とはだれか。「その物」か。それとも別の存在であり、「それ」は「その物」だろうか。
 「降り立つ」という動詞と「昇天する」という動詞は逆の動き。「その物」が「降り立ち」、「彼」が「昇天する」と読むと、「論理的」なようだが、ちょっとおもしろくない。
 「その物」「彼」「それ」が別個の存在でなく、「ひとつの存在」のその瞬間瞬間の「呼び名」ではないだろうか。「降り立つ」ことによって、内部から破壊する(破壊される)。(「内破」ということばを知らないので、私はかってにそう読む。)
 このとき「彼」は「その物」であり、「それ」は「降り立つ」という動詞である。「降り立つ」という動詞が「内部を破壊する」。そして「内部を破壊する」という動詞は、「吐瀉する」という動詞になり、「吐瀉する」という動詞そのものになる。動詞が変化していく。その過程を「攫われる」と言いなおす。動詞が動詞を攫っていくのだ。動詞を動詞のままにしておくのではなく、別の動詞へと攫っていく。そういうことを「昇天する」という。
 うーん。
 この、最初の動詞が最初の動詞のままではいられなくなり、次々に変化していく。そして死んでしまう、というのは、セックスに似ていないか。
 「昇天する」とは「エクスタシー」のことである。実際に「死ぬ」のではないが、ひとはその瞬間「死ぬ」とか「いく(逝く/行く)」と叫ぶ。「死ぬ」というのは「苦しい」ことであるはずなのに、その「苦しい」は「快感」であり、もとめずにはいられない。
 矛盾だが……。
 「降り立つ」と「昇天する」という最初と最後の動詞は矛盾している(反対のもの)であるから、その全ては「矛盾する」という動詞として調和する。

 これでは、なんのことか、わからないか。

 でも、そうに違いないと思う。
 「これでは、なんのことか、わからないか。」と書いたとき、その「わからない」は「全体」の「意味」というか、「結論」が「わからない」ということであり、その「わからない」にいたるまでの一瞬一瞬は「わかる」。一瞬一瞬が「わかる」とは、つまり動詞の一つ一つが「わかる」ということ。しかし、それをつなげて「ひとつ」の「結論」として言おうとすると、「わからない」。
 これは、私の「感想」を振り返ってのことばなのだけれど、それはそのまま、藤井の「蠅」という詩にも通じないだろうか。
 「降り立つ」「内破する(される)」「吐瀉する」「攫う(われる)」「昇天する」。その動詞はすべて「わかる」。けれど、それをつないでまとめようとすると、「意味」がわからない。全体を要約する「意味」が「わからない」。動詞が「意味」にならない。「意味」はどうでもよくて、動詞が変化して、それがつながっているということが大事なのかもしれない。
 動詞を統合するものとして「存在/名詞(蠅)」があるということになるのかもしれないが、その「存在/名詞」は仮のもの、「ほんもの」は「動詞」である。「動詞」しかない、と私は藤井の「蠅」を読みながら思うのだった。「蠅」になりながら、「蠅」をそとから観察するのではなく、「蠅」の肉体になって、「蠅」の動詞を生きる。
 ここに書かれている「動詞」そのものを生きるとき、その私は「蠅」という「名前」になるのだと実感した。

 別の「蠅」。

 今朝も硬い道の上に、新鮮な反吐がまかれている。朝は来た! 反吐は生身だ。大爆発するオモチャの光。ぼくは飛ぶ。硫酸の大海原。

 この作品では「名詞」の方が「強い」。「反吐」があざやかに描かれている。
 けれど、私はやっぱり動詞に魅了される。
 「朝が来た!」の「来た」の絶対的な美しさ。その「絶対」に向き合うのは「生身」という「名詞」なのだが、これが私には「名詞」以上に感じられる。「動詞」に感じられる。
 「生身」が「動詞」とは、どういうことか。
 一番単純なのは、「生身になる」と「なる」を補った形。「反吐」は何かが「生身になったもの」と考えることができる。
 でも、これでは、まだ「弱い」。「朝が来た!」の「来る」のように、ひとの(人間の)感情を越えて動く動詞ではない。絶対的ではない。非情ではない。
 「生身になる」は「身/形」を「生にする」ということである。「生にする」とは「生まれる前にする」ということ。「身になって生まれる」と、そこに「人間」が姿をあらわすのだが、その「身/形」になるまえの、「生(なま)」のものを、そのまま、そこに出現させる。
 「反吐」は「糞」になる前のものが、逆流して、そこにばらまかれたもの。死んで糞になるはずのものが、生き返って、つまり未消化、「生(なま)」のままあらわれてきたもの。そして、そのとき「身」の方は、吐くことで、それを食べる前の状態、「生(なま)」な状態にもどる、と書くと書きすぎたことになるなあ。きっと。
 どう書いていいのかわからないのだが、ここには「生」の「肉体」が生まれてきている。その「生まれる」という「実感」が「生身」という「名詞」なのだ。
 「生まれる」は「爆発する」という動詞と重なる。それは、どこへ行くのかわからないままの、瞬間的な動詞だ。「エクスタシー」だ。これを「飛ぶ」という短い「動詞」に結晶させている。
 「反吐」を吐くときの苦しい「肉体」が、「反吐」を見つけたときの「蠅」の「肉体」の喜びになって飛び回る。

 文体に、不思議な力がある。

 この不思議さは、いったい、どこからきているのか。
 「困難な物語」のなかの、次の部分。

 ぼくは歴史を信じない。そんなものが一体どこにあるというのだろう。今現在が、例えば歴史の先端なのだろうか。本当にそうなのだろうか。それは本当ではない。ぼくはもっと先がすでに存在しているような気がする。

 この「ぼくはもっと先がすでに存在しているような気がする。」というときの「先」を藤井は実感している。そして、その「先」というのは「未来」のことではない。
 たぶん、「生身」ということばにふれたときに書いた「生まれる前」のことだ。だからそれは「歴史」以前でもある。
 世界というのは、「いま」、次々に何かが生まれながら「世界」になっているのだが、そういう「形(身)」になるまえのものから、藤井は「いま/形/身」を見ているのだと思う。
 未生/混沌が藤井には見えるのである。
 遠慮して「気がする」と書いているが、絶対に見えるのだと思う。「信じない」ということばもこの一段落にはあるのだが、「歴史」は「信じない」だろうが、「未生の世界/ものが生まれてくる場」というものを藤井は「信じている」。
 そういう場をとおって、「動詞」を動かしている。
 「未生の場」だから、もちろん「歴史」ではない。そして「未来」でもない。「いま」の「先」としか言えない。「いま」が生まれてくる、その生まれるという動詞こそが「先」の正体であり、それは「肉体」が存在する限りいつでも存在していると藤井は実感しているのだとも思う。
 その「実感の強さ」に、私はいつも飲み込まれてしまう。
夜への予告
藤井晴美
七月堂