廿楽順治『怪獣』 | 詩はどこにあるか

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廿楽順治『怪獣』(改行屋書店、2016年05月20日発行)

 廿楽順治『怪獣』は行端が下の方にそろっている。書き出しがでこぼこの山になっている。形を変えて引用すると、印象が違ってしまうかもしれない。私は目が悪いので、行末をそろえる処理が疲れる。頭をそろえる形で引用する。原文は詩集で確認してください。
 廿楽の作品は、その口調に特徴がある。文体と書かずに口調と書いたのは、「口語」の響きが濃いからである。
 「妖星伊勢屋」を読んでみる。

あの
おでん屋のおやじが
べつの星から来たことは知っていた
毎日引いてくる屋台のなかで
ぐつぐつ煮込まれている
あれら
死の姿をした怪物たち
カレーボールが
なにしろ尋常ではないうまさだ
きみたちは知っておるかな
近所の寝たきり博士は警鐘ならした
われわれの地球も
いずれはあんな風に
ガス星雲の
おつまみにされてしまうのだよ

 「口語」とは「口調」でもある。「なにしろ尋常ではないうまさだ」「きみたちは知っておるかな」「おつまみにされてしまうのだよ」。「文章語」は、こんなふうには書かないねえ。
 でも、その「口調」だけで「口語」というのかなあ。
 まあ、そうかもしれないけれど、私は少し違うことも考えた。
 「文章」というのは、たぶん「事実」を積み重ねて「世界」を描いてみせるもの。「事実」というのは「もの」と「運動」によってできている。「叙事」が世界であり、文章とは一般に「叙事」のことである。
 詩に即して言えば、「おでん屋のおやじ(主語)」が「屋台」という「もの」を「引いてくる(動詞)」という構造でできている。「主語」と「動詞」で「世界」がつくられる。
 「ぐつぐつ煮込まれている」というのは「おでんの具(主語)」が「煮込まれている(動詞)」ということであり、それは「おやじ(主語)」がおでんの具を「煮込んでいる(動詞)」と言い換えることができる。私たちは、変化していく「文章」のなかで「主語」を一貫させながら「世界」の「全体」をととのえていく。
 「もの」に「運動」を語らせ、そうやってできる「世界」を「事実」として眺めている。「おやじ」がいる。「屋台を引いている」「おでんをつくっている」「おでんは、ぐつぐつ煮えている」。これが「もの」が語る「世界」。
 つづらのことばを追っていくと、自然にそういう「世界」が見える。
 で。
 廿楽は、こうした「文章」の基本を踏まえながら、同時に「文章」をはみ出していく。「主語+動詞」という世界の構造を基本にしながら、そこに違うものを書き込んで行く。
 何を書き込むか。
 「感想」を、あるいは「意見」を書き込むことで、「世界」を「事実」とは違うものにしてしまう。
 あ、これは方便で書いている「解説」なので、実際は逆に言うべきなのだが。
 つまり、廿楽は「事実」を書く、「叙事」を述べるというよりも、「感想」や「意見」を世界を描写するのである。
 「なにしろ尋常ではないうまさだ」というのは「事実」とは言えない。つまり「客観的」ではない。「客観的」な「証拠」のようなものを、廿楽は何も書いていない。だしの秘密とか、煮込み方の秘密とか、そういう「レシピ」は書かずに「うまい」と「感想/意見」を書き、その「意見」にあわせて「死の姿をした怪物」ということばがつかわれる。
 「死の姿をした怪物」というのは、厚揚げか、がんもどきか、何かしらないが具体的なものではなく、「比喩」である。「比喩」とは、その「もの」をどう見るかという、感想であり、意見である。感想や意見が「比喩」を支えている。
 「おつまみにされてしまうのだよ」というのは、「事実」でも何でもない。あからさまに言ってしまえば「嘘」である。この「嘘」もまた「比喩」と同様に、感想であり、意見である。

 感想や意見というもののなかには、「頭」で考え抜き、ととのえるもの(鍛え上げるもの)もあるが(一般に「思想/理念」と呼ばれるものだが……)、単なる「肉体」の反応のときもある。「頭」で考え、整理すると「死の姿をした怪物」なんてものはいないのだが、その瞬間の「印象/おもいつき」なら、そういうことはありうる。
 この「ことばにならない」奇妙な印象は、「論理的なことば」を超えて、何か直接「肉体」に触れてくる。わからないまま、納得してしまう。
 これが積みかさなると……。
 「世界」ではなく、そのことばを語った「ひと」の方が見えてくる。
 おでん屋のおやじではなく、そのおやじを見ている廿楽が見えてくる。あるいはおやじを見ている他の人も見えてくる。他人の「意見/感想」も聞こえてくる。ひとの蠢き、よお腹のざわめきが見えてくると言い直してもいい。
 ここから、廿楽は「感想/意見」を「もの」としてあつかっていると言うことができる。つまり、「感想/意見」の動き、衝突を「叙事」にしていると言い換えることができる。
 廿楽は「もの/事実」を書くことで「世界」を見せているのではなく、「感想/意見」を書くことで、廿楽そのものを見せている。
 この「世界」を見せているのではなく、廿楽そのもの、生きているひと(人事?)を見せるというのも、「口語/口調」の特徴だ。
 私たちは(私だけかもしれないが)、だれかと話しているとき、その話のテーマ(内容)よりも、論理よりも、話しているその人そのものに魅力を感じる。ひかれる。話されたことはさっぱりわからなくても、あるいは忘れてしまっても、それを話したひとのことは忘れない。
 「口語/口調」などというものは「論理」ではないから、説明したってしようがない。そして、その説明したってしようがないものが、どうも「世界」のどこかを動かしている。それを、「論理」にしないまま、「口語」のまま「口調」のまま、廿楽は「ことば」にしている。
 そこに「詩」がある。

 そして、この「詩」を、私は「肉体/思想」と呼ぶのである。
 「思想」とは、むずかしいことばで語られる抽象的な論理のなかにだけあるのではない。ことばにできない「口調/口語」のなかに、叩いてもこわれない形で生きている。ひとの肉体そのもの、生きているという「事実」こそ、人間にとって最大の、もっとも重要な「思想」なのだ。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。
 廿楽は「感想/意見」から「世界」をあぶりだしている、というだけで充分だったのだろうと思う。「感想/意見」を「叙事」にするという新しいスタイルをつくり出しているというだけで充分だったのかもしれない。
 でも、書いてしまったから、まあ、しょうがない。
 「南海の大決闘」に、とてもいいことばがある。

南海へ
わたしたちは
あのけだものどもの争いをながめにいった
まだ三男が生まれていなかったころ
家族で世界のおそろしさを
おがみにいこうよ
こうふんして見物にいったのだ
世界はばかみたいに
あらそっている
わたしたちはそのばかものどもを
ほんとにばかだなあ、とおがんんでいた
(だって南海だもの)
あったかいいんだもの

 何回も出てくる「ばか」。この「ばか」というのは「論理ではない」(論理的ではない)ということ、なんて、断定してしまうと、また違ったものになるが、ようするにわたしたちが「ばか」ということばで引き受けているどうでもいいこと。「ばか」という瞬間、「論理」を忘れている。「論理」を忘れるだけではなく、「論理」を超えている。そして、一種の「和解」のなかにある。そして、その「ばか」を「事実」にしてしまうのではなく「ばかみたい」という「感想/意見」にすることで、それが「叙事」となって動くのだ。

旅館では

みんな夢中で
じまんの寝技をかけあった
まったくばかみたい
このことは
子孫たちにもそれとなく伝えておこうかな

 「ばかみたい」。そう「感想/意見」をもらしたとき、強い力で結びついてしまう何か。それが、いろんなところに隠れている。いや、あらわれている。「世界」って、そういうものだなあ、と廿楽の詩を読みながら思う。

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