田中紀子「プリズム」 | 詩はどこにあるか

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田中紀子「プリズム」(「豹樹Ⅲ」26、2016年06月20日発行)

 田中紀子「プリズム」は、いま生きている母を描いているか、生きていた母を描いているのか、よくわからない。どちらとも読むことができる。生きていた母だとしても、記憶の母だとしても、田中のなかにいま生きているからだろう。

母は
リビングのソファに身を沈ませて
鶴を折りつづけていた

私は
台所で
廊下で
リビングで
庭で
立ち働いて

母は
折りつづけ

私は
立ち働いて

母は
時折手を休め
深々と溜息をつくとき
身体中が瞬きながら
光の粒に分解されて
煌めいた

私は
ああそこにいたのね
とその度ごとに
驚くのだった

溜息と共に
少しずつ零れおちた
光の粒は
静かに
音も立てずに
消えていった

 六連目の「そこにいたのね」の「そこ」が、わからない。
 わからないのに、この「そこ」が美しいと感じる。

 「そこ」とは「リビング」「ソファ」か。そうかもしれないが「場所」とは思えない。
 そこは「溜息」を指しているのか。「光の粒」か。あるいは「煌めいた」という「動詞」か。
 あるいは「深々と溜息をつく」の「深々」かもしれない。「つく」という「動詞」かもしれない。「身体中が瞬きながら」の「瞬く」という「動詞」かもしれない。
 「身体中」の「身体」かもしれない。
 いや、「時折手を休め」の「手」かもしれないし、「休める」という「動詞」かもしれない。
 書かれている「全部」が「そこ」。「母」という存在が「そこ」かもしれない。

 どれかを特定して「そこ」と指し示すことができないのは、そのすべてが「ひとつ」になっているからだろう。

 「そこ」とは別に、六連目にはもうひとつわからないことばがある。「その度ごとに」の「その度」。(ここにも「その」という形で「そこ」に通じるものが書かれている。指し示すという田中の、ことばの肉体が動いている。)
 「その度」とは、母が「手を休めるとき」か、「溜息をつくとき」か、「瞬くとき」か、「分解されるとき」か、「煌めいたとき」か。これも、特定することはできない。やはり「ひとつ」になっているからである。どれかの「とき」をとりだして、「それ」と特定すると何か違ったものになる。あらゆるものが「特定できない」かたちで、深く結びついている。関係し合っている。

 「その度」ではなく、「その度ごとに」の、「ごとに」目を向けるといいのかもしれない。
 「ごと」は「毎」。「毎日」の「毎」。「繰り返し」である。
 五連目のなかに書かれている「動詞」、「動詞/述語」の「主語」となっている「名詞」。それは、一回きりのことではなく、繰り返されているのである。(繰り返しは「母は/折りつづけ」「私は/立ち働いて」という形で先にあり、ここでは「繰り返し」そのものが凝縮されている感じがする。)
 だからそれがたとえ一回きりであったとしても、その一回のなかにそれまでにあったことがすべて存在し、繰り返されている感じがする。
 言い換えると、「手を休める」「溜息をつく」「身体中が瞬く」「光の粒に分解される」「煌めく」ということが一回だけだったとしても、「手を休める」のなかに「溜息をつく」ということが繰り返されている。「身体中が瞬く」ということも、「光の粒に分解される」「煌めく」も繰り返されている。
 「ひとつ」の「そこ」から、瞬間瞬間に、あることが「ことば」になって生まれる瞬間瞬間に、その「ことば」を「生む」別の「動詞」として存在している。すべてのことがつながりながら、「その度ごとに」姿を変えて、動いている。繋がって、生きている。

 この「繋がり」は「ことば以前」の、まだ名づけられていない「ひとかたまりの状態/エネルギー」かもしれない。
 「ことば以前」の「名づけられない」何かが、瞬間瞬間、「ことば」になって生み出されている。生み出されて「ことば」になる。

 同時に。

 この瞬間、「そこ」にいるのは「母」ではなく、「私」でもある。
 「そこ」「その」が特定されていないように、「いた/いる」の「主語」も特定されていない。
 「母はそこにいたのね」と気づく(驚く)のではなく、「私」そのものが「そこ」にいたのだ。「母」となって、「そこ」にいた。「そこ」に
いる。
 生み出される(生まれる前の)私であり、生まれたあとの私であり(こども時代の私であり)、それから母となった(こどもを持った)私、あるいは(こんなことを書いてはいけないのかもしれないが)死んで行く私。「いのち」の繋がりとしての「私」がそこにいる。
 そこにいるのは「母」でもなく「私」でもなく、「いのちの繋がり」そのものであり、それがある瞬間には母になり、また「私」になる。

 タイトルの「プリズム」は、「ひとつ」光を「いくつか」に分けてみせる。「ひとつ」の「光」が「プリズム」を通ることによって、「いくつもの」光に分かれて生み出される。
 それに似たことが、ここでは「起きている」のである。「生まれている」のである。
 (プリズムは光を「分光する」。その「分光」の「分」をつかって「分節」ということもできるのだが、「分節する」ではなく、私は「生み出す/生まれる」と考えたい。)

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