松田朋春『エアリアル』 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

松田朋春『エアリアル』(ポエムピース、2016年05月15日発行)

 松田朋春『エアリアル』にはさまざまな詩があるが、「はなす」がおもしろかった。

はなしてごらん
しまってあるものを
言うのではなく
喋るのでもなく
はなしてごらん
はなしていないことを

自由にしてあげなさい
はなしていないことを
あなた自身も

 「はなす」は「話す」であり「放す」である。
 「しまう」ということばが二行目に出てくる。「しまう」は「しめる/閉める」「とざす/閉ざす」。その反対は「ひらく/開く」。この「開く」と「放す」を結びつけると「開放する」になる。
 自分のなかに「閉ざし」ていたものを「開いて」「放す」。
 そういうことが強く意識されているのだが、あえて漢字では書かない。漢字にすると「意味」が強くなりすぎる。それに「話す」ということばとの関係が見えにくくなる。

 「言うのではなく/喋るのでもなく」という二行は「話す」ではないんだよ、と言っているようにもみえるが、そうではなく「話す」ということばが意識されているからこそ、そう言うのだろう。
 「言う」「喋る」と「話す」はどう違うのか。
 「話す」には「放す/開放する」という意味がある、ということ。「自由にする」ということ。
 とらわれているものを自由にする。そのとき、自由は「はなす」ひとにも、はねかえってくる。「閉ざす」必要がなくなった。「閉ざす」という行動から開放/解放され、自由になる。
 「秘密/隠し事」を考えてみるといいかもしれない。自分のなかに隠していたものを、開いてみせる。ことばにして、告げる。
 「放す/話す」ことは何かを自由にする以上に、自分自身を自由にする。
 「放す/話す」ではなく、そのとき「開く」という「動詞」の方が、「肉体」に強く還ってきているかもしれない。
 自分が「開かれる」。「開かれて」、自分のなかに新しい空気や光が入ってくる。
 それが「自由」の「定義」になるだろう。

 「動詞」のなかで、「意味」が交錯する。ことばの「意味」がとけあって、新しく生まれ変わる。

 こういうことは、ほかの詩人も言っているかもしれない。
 しかし、ほかのひとが言っていてもかまわない。
 自分で言い直す。自分のリズムで、ことばをととのえる。ことばを自分のものにする。そのとき、自分自身が、自分から離れて自由になる。
 つまり、詩になる。

 「はなす」は「放す」であり、「離す」でもある。詩は、詩を書いた人を「離れて」、知らないところへ旅していく。

はなしてみなさい
小川に小舟を浮かべるように

 小川を流れる小舟のように。
 その小舟が、きょう、私のところへ流れてきた。
エアリアル
クリエーター情報なし
ポエムピース