谷川俊太郎「本当の詩集」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「本当の詩集」(「午前」9、2016年04月15日発行)

 谷川俊太郎「本当の詩集」に出て来る「本当」とは何だろう。

これまでに本当の詩集に何度か出会った
郵便で届いたものもあるし
路上で金銭と引き換えたものもある
みな控えめな姿をしていた

 「本当」は「控えめ」ということばに言い換えられているのだろうか。この「控えめ」は二連目で別のことばになる。

本当の詩集の中の言葉が
すべて本当の言葉だとは限らない
ただ手書きの文字や活版の活字の群れに
肉声がひそんでいたのは覚えている

 「ひそむ」が「控えめ」に通じる。それが「本当」であるとしたら、その「本当」は読者が(谷川が)見つけ出すことによって、はじめて「あらわれる」もの、姿を「あらわす」ものである。
 見つけられるのを待っている。
 そうであるなら、「本当」は、逆のものにならないか。見つけ出されないかぎり存在しない。存在していてもわからないなら、それは存在しないに等しい。
 見つけ出すその「視力」(鑑賞眼)が「本当」であり、「言葉」「肉声」は「本当の鑑賞眼」によって「生み出される」、「鑑賞眼」が「本当」を「生み出す」ということになる。
 あ、こんなふうに区別をしてもしようがないかもしれない。「鑑賞眼」が「本当」を見つけ出すのか、「本当」だから見出されるのか、--そこに能動/受動の違い(区別)をもちこんでもしようがない。「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、その瞬間に詩が生まれるのだろう。
 で、「控えめ(控える)」「ひそむ」は、もう一度変化する。言い直される。

本に似ていたが本ではなかった
値段がついていたが商品ではなかった
人間が生み出したものが
人間からはみ出そうとしていたのかもしれない

 「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、詩を「生み出す」。人間が、「生み出す」。この「生み出す」を、谷川は、

人間からはみ出す

 と、言い直す。
 うーん。
 私は「生み出す」は「生まれる」と対応することばだと思っていたが……。
 そうか、「はみ出す」か。
 「控えめ」にしようとしても「はみ出す」、「ひそんで」いようとしても「はみ出す」。
 その「はみ出す」ものが、「本当」ということなのだろう。
 このとき「何から」はみ出すか。「言葉から」ではなく「人間から」と谷川は書く。ここも、おもしろい。谷川は「言葉以外のもの」を読んでいるのかもしれない

 この詩には、もう一連ある。もう四行ある。

本当の詩集が荒れ地で半ば泥に埋もれている
だが中の言葉は朽ちていない
本当の詩集を誰かが月面に忘れていった
深い静けさのうちにそれは無言で呟いている

 この連のなかで、私はこれまで見てきたのと同じ方法で「本当」を探し出すことができない。
 「控えめ(控える)」→「ひそむ」→「はみ出す」という「動き」をひきつぐ「動詞」を見つけ出すことができない。「埋もれている」では「はみ出す」はずのものが逆戻りしてしまう。
 そのかわりに、とても不思議なことばに出会う。
 最終行。
 ただし、「無言で呟いている」という「矛盾」のことではない。私は「矛盾」のなかに詩があると感じているし、この「無言で呟いている」の「呟き」が「深い静けさ」のうちでさらに「無言=沈黙」の音楽になっていくところに、この詩の「本当」があるといいたい気持ちにもなる。また先に書いた「言葉から」ではなく「人間から」という表現を手がかりに、「言葉からではなく」を「言葉ではないものから/無言から」と読み直したい気持になるのだが……。
 そんなふうに言うと、なんとなくかっこいいしね。
 でも、それは「不思議」というより、妙に「論理的」。私が「不思議」と感じるのは、

深い静けさのうちに「それは」無言で呟いている

 で、ある。「それ」。
 「それ」って何?
 「本当の詩(詩)」、「本当の言葉/本当の肉声」と言い換えることができるだろう。「本当の詩」と言ってしまった方が簡単(?)だろう。「結論」として落ち着くだろう。詩なのだから「結論」はいらないといえば、まあ、いらないのだけれど。
 では、なぜ「本当の詩」と書かなかったのか。
 「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のだと思う。「それ」としか、言いようがなかったのだと思う。
 言いたいことは具体的な「ことば」、論理的な「ことば」にはならない。「本当に」言いたいことは、「それ」としか言えないのだ。不完全な「指し示し」でしかあらわせい。
 「本当の詩集」って何? 「それ」。あるいは、「あれ」、または「これ」。知っているもの(覚えているもの)を、ただ指し示すことはできる。どこで出会ったか、それを指し示すことはできる。けれど、明確に別なことばで言い直すと、きっと違ってしまう。
 そういうものが「それ」なのだ。
 「無言」で、つまり言い換える「ことば」を拒絶して、ただ指し示し、反復する形で提示することしかできない、「それ」。ことばを必要としないで伝えあう「それ」。

 よく、気心のしれた相手だと「あれ、どうなった」と言うだけで「意味」が通じることがある。その「あれ」に、この最終行の「それ」は似ているかもしれない。
 「本当の詩集」、その「本当」を体験した人なら「それ」でわかるはず、と言われているようで、私はまごついてしまう。「それ」は意味を超えたことばなのである。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店