「日本国憲法改正草案」を読む | 詩はどこにあるか

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「日本国憲法改正草案」を読む


日本国憲法改正草案 自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定)という文書が次のURLに掲載されている。
http://editorium.jp/blog/wp-content/uploads/2013/08/kenpo _jimin-souan.pdf#search='kenpo2013+%5B%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A8%5D+editorium.jp'

 これを読んでみた。全部に触れる余裕はないので、いちばん短い形で語れる部分を取り上げる。
 私は詩を(あるいは小説や短歌、俳句などの文学を)読むとき、「動詞」を中心にして読む。何が書いてあるかを「動詞」は裏切らない。「名詞」(概念)は何が書いてあるのか、ことばの「豪華さ」にごまかされて、よくわからないことがある。時には「難解だから正しい(自分の知らないことが書いてあるから正しい=自分を新しい知の世界へ導いてくれるから正しい)」と思い込まされることがある。そのことばをつかって何かを語ると、あたかもそのことばを最初につかった人と同じ「知」にたどりついたかのような錯覚に陥ることがある。私はこの概念を知っている、だから「正しい」と錯覚してしまうことがある。
 でも、「動詞」なら、そういうことはない。「動詞」はだれもが同じように「肉体」を動かして「実行」している。そこに「肉体」があるから、ごまかしようがない。自分はそういう行動をできない、となれば、それに従うわけにはいかない。
 たとえば知らない土地(外国)の知らないひとの集まり。コップに透明な液体が入っている。のどが乾いている。飲みたい。でも、飲んで大丈夫かどうかわからない。尋ねたいが、ことばもわからない。けれど誰かが、それを飲んでみせてくれれば、大丈夫。それは、飲める。「肉体」が「飲む」という「動詞」を実行する。それから起きることを「動詞」は裏切らない。

 で、「動詞」を読む。「動詞」「動詞」には「主語」が必要だから「主語」を補って読む。そうすると、そこに書かれていることがよくわかる。
 
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(現行憲法)
第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 「侵してはならない」を「保証する」と「改定」している。どちらも国民の「思想及び良心の自由」を守っているように見える。
 しかし、違う。
 「犯してはならない」は「禁止」である。「犯すことを禁止する」である。「ならない」というのは「犯す」という「動詞」に説明をくわえたものであり、さっと読むとそこに「動詞」が含まれていないように思えるが、そうではない。「禁止する」という「動詞」が存在している。
 これに「主語」を補うと、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない(これを犯すことを禁止する)。

 になる。
 「自民党草案」は「これを」ということばを削除している。日本語の文体として「うるさい」感じがするからだろう。しかし、私が主語を補ったように書いてみると、「思想及び良心の自由は」「国家権力は」と「主語」が二つになってみえてしまう。だから、最初の「思想及び良心の自由は」というのは「主語」ではなくて、「主題」(動詞をともなって動かない)であることを明確にするために、「これを」と「目的語」のようにして言い直しているのである。
 憲法は、国家権力に対する禁止事項をまとめたものである。主権は国民にあり、その主権を国家権力は侵害してはならない。そういう禁止事項で成り立っている。国民の「義務」を示したものではない。「教育、労働、納税」は国民の「義務」だが、その三つがなければ国家が成り立たないからである。それ以外は国民の義務などない。


思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 というのは、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということである。このときの「保証する」は国の「権利」とも読むことができるし、「義務/責任」とも読むことができる。国に「保証する義務がある」なら、それで国民の思想、良心の自由は守られたように、見える。
 でも、私は、疑う。
 他の条項につかわれている「保障する」ではなく「保証する」と書いていることにも疑問があるのだが……。「保障する」は「砦を築いて守ること、問題が起きないようにすること、守る」という感じがするが、「保証する」では「うけあう」という感じがする。
 そのことは少し脇においておいて……。「思想、良心」にもことばを補ってみる。

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 自民党案は、ほんとうにそう書き換えられるか。

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということにならないか。
 これは逆に言い直してみるとわかりやすくなる。現行の憲法には

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

という補足説明はできるが、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

 という補足はできない。「認めているもの」を「侵す」ということはありえない。そんなことをすれば矛盾である。「認めている」ものは「侵す」の反対、「推奨する」になる。
 逆に言うと、「国家権力が認めた」ということばを補って矛盾しないのが自民党草案である。「保証する」はつまり「認める」ということなのだ。そして、「認めている」ことを「保証する」というのは、それを「推奨する」ということである。「認める」という形で「ある特定の思想」を「推奨する」、それ以外は「禁止する」という意図が隠されているのが自民党草案なのである。
 自民党草案は、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「認める(=保証する、=うけあう)」。

 なのである。「認める」のは「容認できるものを受け入れる」ということである。「容認」の「認」が「認める」である。
 「保証する」(うけあう)というのは、「認める」ということが前提であり、認めないものは「保証しない」ということにならないか。
 さらに言い直すと、

「国家権力が容認できない」思想及び良心の自由は、保証しない(認めない)。

 へと変化していくものなのである。
 これでは「国家権力」に対する「禁止事項」ではなくなる。「国家権力」への「権利」の賦与になる。
 国家は、これこれの思想、良心は「推奨できる」。国家が認めた思想、良心なら、それを認め、受け入れる。それ以外のものは「禁止する」。そういうことになる。ここから国家権力の暴走が始まる。

 そして、これは、「自民党草案」よりも前に、既に「現実」になっている。
 たとえば、最近話題になった「待機児童」問題。「保育所落ちた、日本死ね」という女性のブログでの発言に対し、「匿名発言なので事実かどうかわからない」、つまり「事実」と認めない、「死ね」というような乱暴言い方は「認めない」。さらにはTPPがどのような経緯で締結されたか、その経過に対する質問は国家間の信頼を損ねる(国家機密に関する)からは質問することを「認めない」、安保関連法案を戦争法と呼ぶのは「認めない」、政府に反対する意見は「認めない」。説明などしない。質問そのものも「認めない」。
 TPPに対して安倍が反対と言ったという事実さえ「認めない」。
 自分にとって都合のいいものだけを「認める」。うけいれる。「うけあう」。都合のいいものだけを公開し、それを「認めろ」と国民に強要する。都合のいいものだけを前面にだし、「保証しあう」という形の国家統制が、すでに始まっている。