たなかあきみつ訳/イリヤ・クーチク「ヌード--11」は「特集『悲劇の終焉』の第一冊分『市民戦争』収録詩篇のうち」の一篇。
彼女は鏡を貫通する。コクトーの《オルフェ》のように、
しかもアリスのように全身的ではなく、おのれの裸体によって
ちょうど半身まで。鏡の裏に見出される
巨大なトロフィーに関する思索は彼女のひたいをへどろのように暗くする。
いくつもの「比喩」が登場する。
「コクトーの《オルフェ》のように、」「アリスのように」という形式的には「直喩」と呼べるものがある。「へどろのよう」も「直喩」のひとつと言える。
「巨大なトロフィー」は「暗喩」だろう。「裸体」ということばは、すけべな私にはセックスと直接的に結びつく。だから「巨大なトロフィー」は「勃起したペニス」の「比喩」として見えてくる。
この「暗喩」を生み出しているのは、しかし「巨大なトロフィー」という形(イメージ)ではない。
私の場合、「巨大なトロフィー」が「勃起したペニス」にかわるまでには、「貫通する」「(裏に)見出す」「(ひたいを)暗くする」という「動詞」が深く関係してくる。「貫通する」はもちろん性交渉そのものを指している。「(裏に)見出す」は「隠されている」であり、ほんとうは見えない。つまり、想像するである。想像が「(ひたいを)暗くする」。「ひたい」はそのことばの直前の「思案」でもある。「頭/思考」を暗くする。「思案」は少し微妙だが「頭/思考」というのものは、だいたい「論理的」である。それが「へどろのように」、不定形に、どろどろになる。「妄想」。セックスへの妄想で「精神/頭/思考」が不定形になる。そのとき、書かれてはいないが「情念」が「巨大なトロフィー」にあわせて、明確になる。「情念」の方は「へどろ」とは対極のものになる。しかし、それは「明るい」がどうかは、よくわからない。「暗くなる」という「動詞」にひきずられて「暗い」ものを含んでいるかもしれない。
全体としては、鏡の前に裸の女がいる。女は自分のヌードを見ながら、セックスを想像している、ということを描いたのだと思って読む。裸そのものよりも、裸を見たときに感じる「情念」を「比喩」をとおして描きだそうとしているように、読める。読んでしまう。私の欲望は、そう読みたがっている。
一見して、彼女はそこで手探り状態で、その間
手はこちら側で静かに太腿に置かれてある。
彼女の釣果はといえば、これは彼女の手である?
鏡に近すぎる、うんと体を伸ばした際にも。
「手探り状態」の「状態」は「ようである」に近い。つまり「比喩」だろう。実際には「手探り」をしていない。けれど、「手探りしているようなもの」。実際には「手」は「太腿に置かれている」。
ここでも「動詞」が重要だ。動いていないけれど、「手探りしているようなもの」は、「静かに」という副詞の形で「置かれている/動かない」へと緊密に連絡する。そして「手」が「動かない」かわりに、ほかのものが「動く」。想像が「動く」、ことばが動く。想像をことばにして「動き」としてみせているのが、この詩ということになる。
彼女の釣果はといえば、これは彼女の手である?
この一行は、ややこしい。「これは彼女の手である?」と疑問形になっている。これは、「これはほんとうに自分の手なのか」と疑っていることを意味するだろう。逆に言えば、太腿に自分の手を置きながら、その手を男の手と思っている、想像しているということになる。男の手ならば、勝手に動く。けれど、それが女が想像した男の手ならば、そこから始まる手の動きは女の欲望そのものでもある。「鏡」を見るように、女は自分の手に自分の姿(欲望)を見ている。
それにもかかわらず手探り状態である。したがってこうして鳥肌
立つので。秘密や色情ゆえに。
鏡の中のおのれを彼女は見つめ、おぞましてい面相を引き攣らせる、
泡の中で死滅する何かをあたかも探知したかのように。
自分自身の「秘密や色情ゆえに」、「鳥肌」立っている。そういう女が描かれているのだが、この女は「女の自画像」のようであって、女自身が描いたものではない。男が描いたもの。男が、鏡の前の女はこんなふうにおのれの「色情」に震えていると描いている。そういうことを「したがって」という「論理的」なことばがあらわしている。
女が女を描いたら「したがって」とは書かないだろう。こういう「論理」を通らないだろうと書くと、女性蔑視につながるか。よくわからないが、私の「直観の意見」は、ここには女の欲望ではなく、男の欲望が書かれていると思うのである。女はこんなふうであってほしいという「男の欲望」を感じるのである。(それは書き出しの「貫通する」という動詞のつかい方にも通じる。男の欲望/本能が無意識にことば全体を統一している。)
鏡の中のおのれを彼女は見つめ、おぞましてい面相を引き攣らせる、
泡の中で死滅する何かをあたかも探知したかのように。
では、この二行には、どんな「男の欲望」が書かれているか。
「泡の中で死滅する」は「へどろ」を連想させる。「へどろ」とは「思案/思考/頭」が不定形になったものを意味していた。それらは「死ぬ」ことによって、不定形になり、どろどろになった。
「思案/思考/頭」が「精神」なら、「泡の中で死滅する何か」は「感情」を指しているかもしれない。行動を支配する「感情」とは何だろう。恐怖か。羞恥か。たぶん羞恥、恥じらいだろうなあ。
自分のなかにある隠しておきたい「秘密」、つまり「色情」が鏡に映し出されているのを知って、恥じらう。恥じらい「おぞましく」思い、顔を引き攣らせる。
ここに「探知した(する)」という動詞が出てくるが、これは「思案(する)」「思考(する)」と同じように、精神(知性)で「探知する」、「探る/知る」のである。この理性的な動きにはやはり男が投影されているように思える。
詩人は女を女の立場から描こうとしているのではなく、男の視線で描きだそうとしているように感じられる。
彼女は鏡の黒い裏面で手をぬぐい、
手探りを続行する。もうひとつの半身は、
鏡に映り込みながら、やたらだらだらとおのれを導く、
他在において想像されることに対して
この連は、前の連に出てきた「したがって」の影響を強くひきずっている。「したがって」という「論理」のなかで、ことばが動きはじめる。(この連から、詩のことばが異質に感じられるが、すべて「したがって」が「論理」を要求するからである。)
女は、課の中(鏡を貫通して行った先の世界/鏡の向こう側/鏡の裏面)の自分と、鏡の前の自分との間で、どっちがほんとうの自分なのか、わからなくなっている。「欲望」はどっちに属しているのか。
「他在」という不思議なことば。これは「男」の「比喩」だろうか。「男が想像する女」というものがあり、それが女を導く。しかし、それはほんとうに「男が想像する女」なのか「男に想像してもらいたいと思っている女の欲望」なのか。
鏡の中に映っている女の欲望、鏡に姿を映している女の欲望。それに区別はあるのか。同じように「男が想像する女」と「男に想像してもらいたいと欲望している女」に区別はあるのか。
きっと、ないなあ。
その瞬間瞬間に、入れ替わりながら、動いている。どれがどっちと固定せずに、二つの間を動きながら、女も、男も、欲望をも姿をかえながらあらわれる、ということなのだろう。
「半身」ということばが何度も出てくるが半身+半身=全身、女が想像する女+男が想像する女(女が、男が想像すると仮定して思い描く女)=全身という「算数」が成り立つかもしれない。ただし、その半身+半身というときの「+(プラス)」は「足す/あわせる」というより、相互に入れ替わるということだと思う。どちらがどちらを意味するかを限定せず、つねに入れ替わることで「全身」になるのだと思う。
しかし……。
いかなる関心も持たずに、こうして切断された毛虫の半身は
静かである、その間もうひとつの半身は先の半身ともども鉤形を呈す。
文字通りその半身は静かである。太腿に手は置かれてあるが
ボディーは優雅な身のこなしや華やかな装いを鼻にかける気配はない、
彼女は--(a)腰かけている、および(b)全裸である以上は。ところがいきなり
この部位は彼女をぴくっとふるわせる、呼気で強ばりながら。
反映は鏡の中を遡行する。髪の毛=蛇をそよがせる
その顔は余すところなく--胴体も足も手もなく。
詩人は、もっと「冷酷」な感じなのかなあ。女のことが嫌いなのかもしれない。何か女の欲望によりそう感じがしない。「したがって」からつづいている「論理」、「男の視線」がここでは徹底している。「(a)腰掛けている、および(b)全裸である」というような箇条書き(?)の分類が冷たい。
「毛虫」「蛇」という「暗喩」の唐突さが、冷たい。
「毛虫」は「髪の毛」に対して下半身の「毛」、つまり女性性器そのものの「比喩」だろう。「毛虫」はさらに「その部位」と抽象的に言い直されているが、この言い直しがとても冷たい。まだ「毛虫」の方が「感情」を感じさせるぶんだけ「温かい」感じがする。
「切断された欲望(下半身の欲望/「この部位」の欲望)」と「上半身の装い(理性/頭)」が対比され、その両方をいっしょに生きているのが女が、と言っているように読めるが、そういう「切断(断絶)」は何も女だけのものではなく、男のものでもあるのだが、この詩人は、そうは考えないのかもしれない。
「髪の毛=蛇」は、何かなあ……。下半身は「毛虫」そのものだが、上半身はイブをそそのかした蛇そのものであり、やっぱり男を誘うことをやめていないということ?
よくわからないが。
「蛇をそよがせる」の「そよがせる」は漢字で書くと「戦がせる」になるだろう。漢字になおして読み直すと、ふたたび詩はセックスへともどっていくのだけれど、そこには「色気」というよりもキリスト教の「原罪」の方が強く出てくる。
あ、私はキリスト教徒ではないので、「キリスト教の原罪」と書いたところで、ぜんぜん実感がない。ただ、そう呼ばれているものが、ここにあらわれているのかなあ、と想像するだけである。
何を書いているのか、よくわからない感想になってしまったが、「したがって」からつづくことばの動きが、なんとも「男臭く」て、前半とは違っているのがおもしろく感じた。
「毛虫」「蛇」という唐突な比喩は、たぶん詩人全体の詩の中でつかみなおさないといけないのだと思うが、こういう部分にこそ「注釈」がほしいなあと感じた。「意味」ではなく、ほかの詩では「毛虫」「蛇」がどういう具合につかわれているか、という「注釈」があれば助かるなあと感じた。
「動詞」はどの国語でも「肉体」と密接に関係しているので、かってに「誤読」できるが、(たとえば「そよがせる=戦がせる」)、「名詞」は「誤読」がむずかしい。
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