さらさら素麺を 鍋山ふみえ
さらさら
そうめんをすする
茹で
流氷のかけらに白い藻がまつわりつく
北海の
氷の下に 海藻 プランクトン クリオネ
波の上に カモメ
春めいて
外に外に あるいは 内に内に
結球したキャベツを手に取る
キャベツ畑でキャベツ祭が開かれている
にぎやかに葉のめくれている
右手に持ちきれない重量
うすみどりのキャベツを蒸す
もっと明るく もっとあまく
塩 胡椒 酢 オイル
喉を通り 腹にとどく 胎に影が落ちる
胎児の頭くらい
真水に放たれる うつしみはむかし水呼吸をしていた
水面から顔をあげ息を継ぐ
潮 湖沼 巣 老いる
皿の肌が白くのぞくまで 盛られたキャベツを食べる
受講者の感想。
<受講者1>朗読を聞いて、世界が展開していく様子がわかり、楽しかった。
イメージに飛躍がある。
「潮 湖沼 巣 老いる」は黙読したときはわからなかった。
「うつしみはむかし水呼吸をしていた」は、わからないがおもしろい。
<受講者2>流れがきれい。
そうめんからキャベツに変化するのは矛盾だけれどいいかな。
「うつしみ」に生命のつながりを感じる。
漢字とかなで、別なものをみせる手法がおもしろい。
<受講者3>展開がおもしろい。
「春めいて」からの春のうごめきが
「外に外に あるいは 内に内に」からキャベツにつながる。
そこがおもしろい。
「潮 湖沼 巣 老いる」にびっくりした。
「うつしみ」はしぶい。命を感じさせる。
<受講者4>展開がおもしろい。
「塩 胡椒 酢 オイル」という日常が
「潮 湖沼 巣 老いる」にかわるところがおもしろい。
最後の「皿」が書き出しの「さらさら」にもどり、循環する。
<受講者5>食卓、台所のことと遠くからやってくる春の気配が
層になっている。
世界が層になっている。
「水面から顔をあげ息を継ぐ」が新鮮。
感想がイメージの展開に集中したが、私もイメージの展開がおもしろいと思う。「塩 胡椒 酢 オイル」と「潮 湖沼 巣 老いる」が同じ音のなかで出会い、わかれていく感じは、目で読み、また耳で聞くという二つの体験がないと味わえない興奮である。
この「イメージ」の展開はどこから来ているか。どこから動きはじめているか。
「流氷のかけらに白い藻がまつわりつく」という一行が重要だと思う。ここには二つの種類の「比喩」がある。
そうめんには「氷」がつきもの。そこから「氷→流氷→北海」とことばが動いてゆく。「換喩」と呼ばれる手法。(で、いいのかな?)そのきっかけが、ここにある。
もうひとつの「比喩」は「白い藻」。これは「暗喩」。そうめんを「白い藻」と呼んでいる。
ここから「比喩」の変化がはじまり、それが世界の変化になっていく。
そうめん→白い藻→海藻。そのあとは、海のなかの「白い」生き物。プランクトン→クリオネ。連想がスムーズだ。
その次の「(北海の)氷の下」「(北海の)波の上」という対比。「(白い)クリオネ」に対して「(白い)カモメ」がある。書かれていないけれど、余韻のようにして残っていることばが、向き合い、呼応し合う。
次の「春めいて」の「春」は「下/上」という対比の運動が導き出したことばだろう。「北海」(北/氷/寒い)と「春(暖かい)」が対比されていることになる。
この「対比」という運動は繰り返されると、「繰り返し」そものが「論理」になる。何もないはずの「対比」のだが、「対比する」ということが世界をつくりなおしはじめる。「対比」を書きつづけると、そこに「対比する」という別の次元の世界が生まれ出てくる。こういう運動は、少しオートマチックである。「意識/意味」を外れることがある。シュウルレアリスムの「自動筆記」に似たところがある。
「下/上」は「北(海)/(南)春」に、そして「外/内」へという向き合う動きが自然に、追加される。キャベツは「玉」の状態で大きくなるわけではない。「外」から「内」へと「結球する」のである。
「そうめん」から「氷/北の海の底」はわかりやすいが、「そうめん」から「キャベツ」への転換は「もの」のイメージを中心にして考えると、(名詞/存在のイメージを中心にした考えると)、ちょっとわかりにくいが、比喩の変化、イメージの変化のなかにある「動詞」の部分、「対比する」という動きを中心に見ていくと、少しわかりやすくなるかもしれない。
鍋山がここで追いかけているのは「イメージ」の「意味」の言い換え(比喩)ではなく、あるものから別なものへと動いていくときの、基本的な「動き方」なのだ。「対比」という方法なのだ。
そうめん(夏)から北海(冬)へ。その「反対」の向き/動き。そこに「下/上」「外/内」が加わり、「外/内」が「結球する」という動詞のなかで衝突して、キャベツという新しい「比喩」を「事実」にしてしまう。存在させてしまう。このキャベツの登場は唐突だが、鍋山の「対比」の運動を基本にしていけば、唐突なところは何一つない。キャベツはめくれながら結球する/結球しながらめくれる。
それが、どうした? どうもしない。
ただそれだけである。そうめんからキャベツが生まれてくるのは、「換喩」でも「直喩」でもない。「喩」を飛び越して無意味/ナンセンスである。しかし、この無意味/ナンセンスは「存在(名詞)」ではない。「運動」である。
「運動」だからこそ、「胎(児)」や「うつしみ」という「対比」も、そこから生まれてくる。「対比」が増幅して「対比」を生み出す。再生産し、循環する。暴走する。
そのいちばん輝かしい暴力/ことばの破壊が
塩 胡椒 酢 オイル
潮 湖沼 巣 老いる
である。「意味」はない。「上/下」「内/外」「北(寒い)/春(暖かい)」というような「反対/対立」という構造がない。ただ「ことば」と「音」だけがある。「対比/対立」ではなく「対比/同じ音」という、それまでとは違った「同じ」ものによる攪乱がある。攪乱されたときに「もの」が触れあう、その聞こえない「音楽」がそこで鳴り響いている。「意味」を放棄して、一瞬の混乱に酔う。これもポップかもしれない。
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鍋山ふみえ「さらさら素麺を」(現代詩講座@リードカフェ、2016年03月23日)