大橋政人「名札」ほか | 詩はどこにあるか

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大橋政人「名札」ほか(「ガーネット」78、2016年03月発行)

 大橋政人「名札」の全行。

休日が続くので
さすがに
人影もない

うちの奥さんは
道端の花壇で
小さな草花の前に
小さな園芸ラベルをさし込んでいる

プルネラ
ルイシア
ハナトラノオ

(みんな覚える気もないのに
(花の名前を訊いてくるんだから

作業の訳をぶつぶつ言いながら
次々とラベルをさしていく

公園に行けば
どの木にも吊るされ
昔々は制服の胸に縫いつけられ
本体を指し示し続けてきた名札

ヒソップ
レティマントル
バルンフラワー

本体の前に置かれた名前を見ると
いつも胸が騒いで苦しくなる

道行く人は
花を見てから名札を見るのだろうか
名札を見てから花を見るのだろうか

 どのことば、どの行が印象に残りました?
 私は、最初「(みんな覚える気もないのに/(花の名前を訊いてくるんだから」で笑った。こういうことって、あるね。それがそのまま「ことば」になっているから、おかしい。
 でも、これって、花の名前が知りたいから(名前を覚えたいから)聞くわけでもないよなあ。なんとなく聞く。きっと、「挨拶」みたいなものだと思う。「こんにちは」と言ったついでだね。そこに「奥さん」がいなかったら、聞かない。聞かなくても(知らなくても)困らない。
 と、いうようなことはどうでもいいのだけれど。大橋が書いているので、私も、書いてみただけ。
 次に、あれっと思ったのが「本体の前に置かれた名前を見ると/いつも胸が騒いで苦しくなる」。どうして、胸が苦しくなる? 最終連が大橋の答えなのかな? 「花を見てから名札を見るのだろうか/名札を見てから花を見るのだろうか」ということが気になり、「胸が苦しくなる」? なんだか、そういうことで苦しんでいる大橋がおかしい。
 それとも、「ぶつぶつ言いながら」作業をしている「奥さん」の苦労がむくわれるのか、むくわれないのか、それを気にしてこころを痛めている(胸が苦しくなる)のかなあ。よくわからないが、なんとなく、大橋のことを「おかしい」と感じる。
 くすぐったいような、おかしさ。大笑いではなく、くすっと漏れてしまうおかしさがある。
 たぶん、この「なんとなくおかしい」という感じだけで、この詩を読んだかいがあるというものなのだろうけれど……。

 私は、ちょっとほかのことばも気になった。

本体を指し示し続けてきた名札

本体の前に置かれた名前を見ると

 二回出てくる「本体」。「意味」は「わかる」けれど、うーん、こんなとき「本体」って言う? 私は言わない。私なら何と言うか。「本体」を読んでしまったあとなので、すぐには思いつかないが、こんなふうには言わないなあ。この、ことばで説明できない「ずれ」のような部分に、詩のはじまりがある、と思う。でも、これは、書きつづけるのがむずかしい……。
 中断して。
 「本体」って、何? 私は再び考える。ほんとうの体。広辞苑には「正体」と書いてあったが、「正体」はおおげさだなあ。「花の正体」などという言い方は私はしないからなあ。
 「指し示す」という「動詞」も気になる。
 「名札(名前)」って「本体」を「指し示す」もの?
 私は、そんなふうには考えたことはない。
 私は自分の名前が正確に、つまり親が呼んでいる通りに読まれる(呼ばれる)ことが少ないので、特にそういう感覚なのかもしれないが、「名前」は「便宜上」のものという感じがする。自分の「本体/正体」を「あらわしている」とは考えていない。
 で、ここ。
 私は「指し示す」を「あらわす」と無意識に書き換えたのだけれど、「指し示す/あらわす」という「動詞」が「名前/名札」で「交錯する」(入れ替わる)ということも、もしかすると、私がこの詩につまずいた理由があるのかもしれない。「つまずく」というとおおげさで、何か気になるなあという感じなのだけれど。
 「あらわす」は「指し示す」には少し違いがある。「あらわす」は「あらわれる」という形とどこかでつながっている。「指し示す」はもっぱら「他人」が「指し示す」。ところが「あらわす/あらわれる」は、「おのずと」あらわれる、という感じがある。「自発的」なものがある。「正体をあらわす/正体があらわれる」。
 私は、そういうところでつまずいている。「正体」と「指し示す」とは違う何かを感じながら、大橋の書いたことばの前を行ったり来たりしている。
 花の名前は、花を育てる人が自分で直接つけるわけではない。花は「奥さん」が「直接」育てている。けれど「名前」は少し違う。すでに誰かがつけたものである。つけたひとは「正体/本体」を「あらわす/指し示す」ことを願ってつけたのだろうけれど、なんらかの「意味」をこめてつけたのだろうけれど、「奥さん」は違うね。そのように「指し示す」ことを受け継いでいるだけだ。その「正体」をそのまま受け継いでいる。「あらわそうとしたもの/こと」を受け継いでいる。
 世界(世の中)には、こういう「受け継ぎ」がたくさんあるだろうなあ。
 それがきちんと「受け継がれていく」かどうか、ということも、もしかすると大橋は気にかけてるのかもしれない。それが気になり「いつも胸が騒いで苦しくなる」のかなあ。
 「騒ぐ」という「動詞」も、じっくりと見つめなおしてみないといけないかも。「騒ぐ」から「苦しくなる」のだから、大橋にとっては「騒ぐ」という「動詞」の方が大事かもしれない。
 さらっと読んで、くすっと笑って、あ、楽しい、ということで通りすぎてもいい詩なのだけれど、ちょっと考えてみたい問題がある、ということなのかなあ。

 もう一篇「天衣無縫」は「天人の衣には縫い目がない」ということから、ネコをみつめなおしている。ネコにも縫い目がないなあ。「ネコは/天衣無縫だから/天衣無縫である」という「同義反復(禅問答?)」があって

本体と動作
静態と動態
オソロシイことに
二つの間には
どんな縫い目もない

ネコの歩行のオソロシイほどの静かさ
ネコの跳躍のオソロシイほどの自由さ

 という具合に進んでいく。
 ここにも「本体」ということばが出てくるから、きっと、いまの大橋には「本体」がとても重要なテーマなんだろうけれど、それはそれとして置いておいて。
 「縫い目がない」なんて言ってしまえば、人間の肉体にも「縫い目がない」はないよなあ。「臍」が「縫い目」というのなら、ネコにもあるよ。少なくともネコの手足に縫い目がないというのなら、人間の手足にも縫い目はない。
 うーん、なぜ、「ネコ」を書いたのかな? なぜ、人間ではなかったのかな?
 ここにも、大橋の詩の「おかしさ」があるね。「おもしろさ」があるね。
26個の風船―大橋政人詩集
大橋 政人
榛名まほろば出版