秋亜綺羅「十二歳の少年は十七歳になった」について、少しだけ補足。
私は詩を読むとき、動詞に注目しながら読む。「名詞」には、それぞれの思いがある。人によって「イメージ」が違うことがある。「水」なら、「冷たい」「透明」とか。ところが、「水を飲む」「水で洗う」と「動詞」といっしょに見つめなおすと「イメージ」は「共有」されることが多い。
コップに入っている液体。「水かな? 飲めるかな? 飲んで大丈夫かな?」わからない。けれど、誰かがそれを飲む。「肉体」で「水」そのものとの関係をつくりだすと、安心して、それを「肉体」で「真似る」ことができる。同じ「動詞」を生きることができる。
「水で手を洗う」も同じだね。
「肉体」を動かして、「もの」との関係を生きる。そのときの「動詞」は何語であろうが、「共有される」。
これが、私の、詩を読むときの「基本」。詩にかぎらず、ことばを読むときの基本。「動詞」がないときは、「名詞」を「動詞」にしてみる、というのも、他人が書いたことを理解するのに役だつ。
「挨拶」だったら「挨拶する」。「わかれ」だったら「わかれる」。
で、そんなふうに読んでいくとき、たとえば次の連。
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことはできない
と寺山修司はいった
ここには「飛ぶ」(二行目)という「動詞」と「言う(いった)」(三行目)という「動詞」がある。「鳥だって」(一行目)のなかに「鳥で/ある」の「ある」という動詞もあるが、この三行の「意味」の核心は「飛ぶ」という「動詞」といっしょに動いているようにみえる。「飛ぶ」ということばを中心に、詩が動いているなあ、と感じ、ここに書かれていることも、簡単に「わかる」感じがするのだが……。
でも、「飛ぶ」というのは、人間にはできない。「動詞」として「肉体」で確かめるわけにはいかない。「水を飲む」という具合にはいかない。
それこそ鳥が飛んでいるのを見ながら、「想像力」で何かを感じているのだが。
その「ぼんやり」と感じること、そこに詩があるのかもしれないのだが。
これをどうやって「肉体」で確かめなおすか、自分の「肉体」に組み込んでつかみとることができるか、ここから、私は、少し考え直すのである。「こころ」とか「精神」を信じていないように、私は「想像力」というものも、簡単に「存在している」とは考えないのである。「想像力」って何? それは、どこにある? 簡単に「定義」できないから、そういうものが、どこかに「ある」とは簡単に判断できないと思うのである。
「想像力」というものがあったにしろ、その「想像力」は私と秋亜綺羅ではまったく違っているだろう。宇宙工学をやっているひとの「想像力」とマラソンを走っているひとの「想像力」が違うように、東日本大震災を体験した人の「想像力」と体験していないひとの「想像力」はきっと違う。だから「想像力」という「ことば」を安易に、共有できるキーワードとはできないと、私は考える。
私が、どのことばに「反応」しているのか、確かめなおす。
高く
ということばに気がつく。「高く」は「副詞」。原形(?)は「高い」という「形容詞」かもしれない。
「高い」は「形容詞」だから「用言」。つまり、「活用」する。「変化」する。「動詞」の一種と考えてみる。
「高い」という「状態」はどういうことか。「低い」があって、「高い」がある。「低い」から「高い」への変化は「高くなる」。ここに、先日みた「なる」という「動詞」が隠れている。
高く飛ぶ
これは、「高い(ところを)飛ぶ」であり、「飛ぶことによって/高くなる」ということでもある。「飛ぶ」という「動詞」は人間の「肉体」そのものでは反復できないが、「高くなる」なら「肉体」で反復できる。「高くなる」は「高くする」という形で「高く」を「肉体」にしっかりと組み込むことができる。
箱を積む。箱が「高くなる」。ここには「高くする」が「積む」という「動詞」の形で隠れている。箱の上に立つ。そのとき自分の背が「高くなる」。(もちろん、これは見かけだが。)箱をふたつ積む。さらに「高くなる」。
木に登る。屋根に登る。地上にいるひとよりも「高いところにいる」。それは、地上から木や屋根に登ることによって、自分の「位置(いるところ)」を「高くする」ということである。
「する/なる」は、そういう形で結びついている。
前回、この詩を読んだとき、書かれている「なる(なった)」という「動詞」だけに焦点をあてたのだが、
高く飛ぶ
という短いことばのなかに「なる」が隠れていると思って読むと、秋亜綺羅が、この詩で寺山修司のことばを引用している「必然性」のようなものもわかってくる。
寺山が隠す形で書いている「なる」と秋亜綺羅の書いている「なる」は呼応しているのである。響きあっているのである。
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