ギャング映画なのか、FBIの映画なのか。どちらでもなく、アメリカの下町の「友情」物語。あるいは、アイリッシュ・アメリカンの「気質」を描いた映画というべきなのか。
いちばん印象深いのは、最初のエピソード。ジョニー・デップの子分が、ジョニー・デップの店に入ろうとする三人組と揉める。乱闘になる。子分は彼らが店内で放尿したことを知っていて、入店を拒む。その三人組のうちのひとりは、ジョニー・デップの妻の兄弟だった。子分はそれを知らずに三人を拒み、さらに乱闘になったのだが。
こういうとき、ありふれた映画なら、子分がジョニー・デップに叩きのめされる。しかし、この映画では逆。ジョニー・デップは子分を気に入り、店の用心棒から格上げし、自分のそばに置く。
なぜ?
子分は三人組のひとりが、ジョニー・デップの妻の兄弟とは「知らなかった」。彼が知っているのは彼らが店内で放尿したということだけだ。子分は自分が「知っている」ことに従って、忠実に「仕事」をした。「知らない」ことは考慮に入れない。
この「基準」のぶれのなさを信頼したのである。
類似したエピソードがそのあとも繰り返される。
こどもが学校でけんかする。相手を殴る。そのことを知ってジョニー・デップは言う。「殴るのはいい(正しい)。ただし、ひとの見ているところで殴ってはだめ。見られたら、それは事実になる。けれど見られなかったら、それはなかったことになる」。
幼なじみのFBI捜査官の家で食事する。FBIの仲間がいる。その仲間が焼いたステーキがうまい。「秘訣はなんだ」「一家の秘密のレシピだ」「言えよ」「言えない」「レシピぐらいいいじゃないか」というやりとりのあと、FBIの仲間が「醤油とニンニク」と言うのだが、そのあと「一家の秘密じゃなかったのか」と問いつめる。「言ってよかったのか」と問いつめる。
これは一種の「からかい」なのだが、本当に「秘密」を守る人間かどうか、それをジョニー・デップは試している。人を信用できるかどうかは、いったん自分が決めた基準を守れるかどうか。そして、その基準は「知る/知らない」ということに深くかかわっている。自分は知っている、相手は知らない。そういう「知る/知らない」の線引きを明確に区別し、境界線を踏み越えないということが大事なのだ。
さらにフロリダでのシーンもこれにつけくわえることができる。取引相手がジョニー・デップに金の入ったバッグを渡そうとする。ひとごみである。ジョニー・デップはそれを拒絶する。「ひとのいるところで金を俺に渡すな」。誰が見ているかわからない。「知られる」のは、困る。誰も見ていないければ(誰にも知られなければ)、金をもらったことは、なかったことになる。このあと、その大金をジョニー・デップはチンピラに「口止め料だ」と言ってやってしまう。これはそこにいた「みんな」が見ている。みんなに「知られる」。そして、チンピラが「口を割った」とき、彼は殺される。「裏切り」をみんなに「知られた」からである。
この「知る/知らない」の境界線を揺さぶりながら、映画は展開する。ジョニー・デップと幼なじみのFBI捜査官は「手を組んで」、ボストンにいる「イタリアンマフィア」を壊滅することを狙っている。ジョニー・デップにとってはボストン全域を支配することができる。FBI捜査官マフィアを壊滅させたと評価され、出世する。ふたりとも、「得」をする。そのために「情報」をやりとりする。ただし、その「情報」がジョニー・デップの側で、あるいはFBIの側でどんなふうに活用されたかは、違いに「知らない」ことにする。具体的に口をはさまない。
ここに、もうひとり、ジョニー・デップの弟が関係してくる。彼は上院議員である。弟がギャングであろうがなかろうが、それぞれに独立した人間だから無関係なのだが、無関係といえるは、互いが何をしているか「知らない」ときだけである。「知らない」ですませるはずのことなのに、ふのふたりの間をFBS捜査官が行き来し、「知っている」にしてしまう。
だれもが何もかも「知っている」。あるいは「知ってしまう」。さて、どうするか。「知る/知らない」の境界線上に立ったとき、どう行動できる。何を基準に行動するか。
これが、この映画のテーマである。
映画の初めに戻る。チンピラ(店の用心棒だった男)の「証言」からはじまる。「知っている」ことを警察/検察(?)に話す。そうすることで自分の罪を軽くし、自分のいのちの安全も要求する。「友情/信義」のために「知らない」とは言い張らない。それが、まあ、ふつうの人間である。
一方、ジョニー・デップの方はといえば「友情」のなかで「知っている」ことは、「友情」以外の場では「知らない」ことを守り通す。言い換えると「友情/信義」によって結ばれていない相手には、「友情/信義」のなかで何が起きたかは「知らせない」。外部の人間が「知る」必要のないことだからである。これを「任侠」と言い直せば、ヤクザの世界になる。ジョニー・デップは「チンピラ」ではなく、ヤクザを生きている。
「知っている」人間に対しては、あくまでも「親切」にふるまう。「身内」として生きる。「知っている」を共有し、それを大切にする。しかし「知らない」人間に対しては、けっして「身内」の感覚では接しない。「知らなくていいこと」は「知って」も「知らない」と拒絶する。
「共有された知っている」を外部に「知らせる」ことは、ジョニー・デップにとっては、「悪」なのである。
IRAを支援するために武器を密輸する(与える?)エピソードが、そういうことを語っている。「秘密」のはずなのに、積み荷が何であるかを船員が言ってしまう。外部に「知らせ」てしまう。「知っている」を自分のなかに守り通せなかった。そのために処刑される。
「知る/知らない」「知っているけれど、知らないことにする」というのは、なかなかむずかしい問題である。おおげさなアクションにしてしまうと、「知る/知らない」の緊張関係が見えにくくなる。だから、この映画は、はでなアクションを抑えている。だれかを殺すときも一瞬である。銃を乱射するのはフロリダの不動産王(?)を殺すときだけだが、そのシーンにしても周囲を極力排除して、「場」を切り取っている。
「地味」すぎる映画だが、「地味」が好きな人にはおもしろいと思う。アイリッシュ気質とはこういうものだったのか、と考えさせられる。IRAの過激さは、こういうところに起因しているかもしれない、とさえ思う。
(天神東宝6、2016年02月01日)
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