サム・メンデス監督「007 スペクター」(★★) | 詩はどこにあるか

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監督 サム・メンデス 出演 ダニエル・クレイグ、クリストフ・ワルツ、レア・セドゥー

 前作「スカイフォール」の方がよかった。と、書いたら、もう書くことがなくなってしまった。
 前作では、ダニエル・クレイグのスーツを着たままのアクションがすばらしかった。服というものは何を着ていても肉体の動きを拘束する。邪魔をする。それなのに、何の不便も感じさせない。まるで何も着ていないみたい。つまり、服を着ているときが「裸」みたいなのである。
 これは今回も同じだが、うーん、見飽きてしまった。
 最初は驚くけれど、「色気」に欠ける。「スカイフォール」のときと、隠しているはずの「肉体」が丸見えという感じがして、それが予想外だったために「色気」になりえていたが、二度目だと、そういう「意外性」がない。「色気」というのは、隠しているから「色気」。前面に出してしまうと、何だろう、あ、「臭み」だ。
 ダニエル・クレイグは「男臭い」だけで、その「臭み」が鼻につく。
 ショーン・コネリーと比較してもしようがないから、クリストフ・ワルツと比べてみようかな。
 クリストフ・ワルツは基本的に動かない。最初に登場するシーン。会議している部屋に入ってきて椅子に座る。逆光でシルエットしか見えない。シルエットというのは不思議なもので、そこに動きがあるはずなのに、その動きが「立体的」にならない。で、そのときに気がつくのだが、私たちはアクションを見ているとき、「肉体」を立体的に見ている。「肉体」が前後左右に動いているという「立体感」ではなく、その「肉体」そのもののなかで、つまり「肉体の内部」で筋肉や骨が絡み合って「立体的」に動いているのを目で見ているのだと思う。これがシルエットになると、「肉体の内部」が見えない。
 で、ここからが大切。
 「見えない」と、見たくなる。つまり「見える」部分に目が集中して、そこから「見えない」ものまで、想像してしまう。クリストフ・ワルツの目がちらりと動く。そうすると、そういうちらりと見るときの「肉体」の内部が観客の「肉体」に響いてくる。ちらりと見るとき、そのひとが「何を思っているか」ということまで、想像してしまう。「何を思っているか」ということは、わからないのだが、「何かを思っている」ということが伝わってきて、ぞくっとする。
 これがきっと「色気」というものだな。
 で、これがダニエル・クレイグの「拷問」のときに、色めき立つ。
 ダニエル・クレイグは椅子に拘束されていて身動きがとれない。一方、クリストフ・ワルツは自在に動けるのだが。その不自由と自由の関係が、なんとも「いやらしさ」をそそる。
 動けないダニエル・クレイグの「肉体」の内部で「痛み」が動く。「肉体」そのものが動く。クリストフ・ワルツの内部では「憎しみ」という感情は動くが、「肉体」は動かない。拷問も、クリストフ・ワルツの「肉体」が動くのではなく、機械が動く。クリストフ・ワルツの「肉体」はダニエル・クレイグの「肉体」には触れずに、暴力的になる。「肉体」に触れないからこそ、その反応が「肉体」にはねかえってこないので、より暴力的に、残忍になる。
 動かない「肉体」が隠している「残忍」な力が、妙に色っぽい。
 この「拷問」を、どうやって切り抜けるか。
 ダニエル・クレイグは、わずかに自由に動かせる手(指)を動かす。「肉体」を動かす。クリストフ・ワルツのように「憎しみ」を動かさない。ダニエル・クレイグは「感情」ではなく、記憶を動かし、知恵を動かす。自分の「肉体」を「知性」でコントロールする。「知性」には生々しさがない。
 だから、というのは変かもしれないが。
 針(ドリル)で顔に穴をあけられるときは、何かぞくっとしてしまうが、この時計をつかって危機を切り抜けるシーンでは、そのぞくっという「肉体」感覚は消える。
 つまり「共感」が消える。
 そして「共感」してはいけないはずの、クリストフ・ワルツの方に「共感」してしまう。ほら、ちゃんと見ていないから(身動きできないと安心しているから)反撃されてしまうじゃないか、何やってるんだ、と怒りたい気持ちになる。ばかだなあ、詰めが甘いんだよ、だから「負け組」になってしまうんだよ、と言いたくなる。
 そこで、ちょっと「同情」。
 この「同情」のなかに「色気」のようなものがまじるかも。それは、この「拷問」のシーンのつづきで、クリストフ・ワルツが顔に傷を負って出てきたときにも感じるなあ。うわっ、醜い。目の色が変わって、気持ち悪い。でも、その気持ち悪さに、ぞくっと感じてしまう。
 「色気」というのは、何か「理性」を離れた不合理なものなのだと思う。脈絡がよくわからないから妄想する。瞬間的な「エクスタシー(自己からの逸脱)」なんだろうなあ。
 で。
 「色気」ついでに脱線してしまうと、ダニエル・クレイグは二度セックスシーンを演じている。これが、なんとも「色気」がない。セックスシーンといっても、キスシーンと言い換えた方がいいくらいで、実際には裸の絡みはない。しかし「色気」がないのは裸が絡み合わないからではなく、セックスするとき「肉体」のなかで何が動いているか、感情や欲望がどう「立体的」に動いているかを想像させないからだ。
 性器と性器が結合するというのがセックスだというのでは、男根主義。「男臭い」だけ。そんなものはショーン・コネリーが演じていた時代でも「色気」ではなかった。
 あーあ、つまんない。
 でも、それは映画をつくっている側にもわかっているのかな?
 ラストシーン、ダニエル・クレイグがレア・セドゥーを抱きしめて終わる。センチメンタルに終わる。これがショーン・コネリーだったら、見られているのを承知で、熱いキスをみせびらかす。女は見られていることを忘れてキスに夢中になっている。その男と女の違いが、これからはじまるセックスを濃厚に感じさせる。男(ショーン・コネリー)が女の官能をリーとしていくという「自信」が、「色気」としてにおいたってくる。そういうことがダニエル・クレイグの「肉体」まるだしのアクションのあとでは無理とわかっていて、「肉体」を封じる形でセンチメンタルにとどめている。
 しかし、まあ、どうでもいいな。こういうことは。
                   (天神東宝スクリーン1、2015年11月29日)






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