新井高子「電球」を読みながら、音、雑音(ノイズ)、肉体ということについて考えてみた。新井の詩は、訛りを含んだ口語で書かれている。漢字にルビが振ってある。それを括弧で補いながら引用する。私は目が悪いので、きっと誤転写すると思うので、変だなあと思うところは、原文で確認してください。
だァらりと、お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ、一重(ひとえ)咲(ざ)ぎの寒椿(かんつばき)が。生垣(いけがき)のその一輪(いぢりん)、しゃくって見(み)やれば、戸口(とぐち)から、年増女(としまおんな)が口紅(べに)ひいて、「電球(でんきゅう)、お助(たす)けくださいませんか」。
ひょっと、合点(がでん)しぢまったァのす、土地(とぢ)ことばじゃねぇもんで。上(あ)がりッ端(ぱな)サ脱(ぬ)ぐボロ靴(ぐつ)恥(は)ずかしかっだなや。「あのひとと同(おな)じ靴下(くつした)」、妙(みょう)に通(とお)ったその声(こえ)が、こっぢの背(せ)すじサ、ひゃッと走(はし)って。軋(きし)んだっけぇ、床板(ゆがいた)も。
このあと、年増女と男との、それなりのやりとりがある。女は誘っているか、男の欲望が女をそうさせたのか、まあ、どっちにしろ同じことだと思う。その女の襦袢をはぎとってみれば、女は乳ガン(だろう)の手術をしていて、乳房がなく、胸に傷跡が……とつづいていく。
その展開は、そこまで読まなくても、なんとなく想像できる。そして、それを想像してしまうのは、ひとつには私が男だからということもあるが、前半のことばの対比が影響しているとも思う。言い換えると、ことばの対比があるために、性的な妄想への動きがスムーズになる。(と、私は私の妄想があくまで新井のことばの「せい」であると書きたいのである。)
書き出しの「だァらりと」から、どこの土地の「口語」かわからないが、ともかく「口語」であることがわかる。意味は「だらりと」、力がない感じをあらわしている。「ァ」という差し挟まれた音が、そのまま力ない感じになって、肉体に響いてくる。誘われて、私の肉体の力もゆるむ。腰骨を立てて、背筋をのばして、椅子にきちんと座って、という感じではなくなる。「意味」ではなく、そういう「音」が発せられるときの、相手の肉体の感じが思い浮かび、それに肉体が反応するのだと思う。
「お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ」は「バ」の使い方、濁音の豊かな響き、「だ」の再びあらわれた濁音の強さのようなものが印象に残る。話し手は、その濁音に対抗する野太い肉体をもっている、という感じ。どことなく「野卑」という感じもする。
これは「電球(でんきゅう)、お助(たす)けくださいませんか」という女の口調との対比でより強くなる。「電球をつけたいのですが、お手伝いしていただけませんか」(かわりにつけていただけませんか)」くらいの意味だろう。「口語」の訛りがない。土地(とぢ)ことばじゃねぇもんで」と、そのことばの調子を男は言い直しているが、そこに「土着」と「土着」ではないという対比があらわれている。
で、「土着」と「土着ではない」私は、「肉体」と「土地」の連続性のことであると考えている。
私はこの世には「肉体」しかなく、「土地」というものは「肉体」が「肉体」から外部に拡大していったものだと考えている。この詩に出てきた「もの」をつかっていえば、たとえば「寒椿」。それはやはり「肉体」のひとつであり、「肉体」とつながっていると感じている。「他人」もまた「他人」ではなく、「肉体」としてつながっている。だから、極端な例でいうと、「他人」を殺すことは「自分の肉体」を傷つけること、自分の指を切ると血が出て痛いように、「他人」を殺すと「自分の肉体」のどこかが血を流し、傷つき、死んでゆく。だから「他人」を殺してはならない、という具合に感じているのだが……。
あ、これは、どうみても「脱線」だなあ。
「脱線」が強引だから、そこから元へ戻る(?)もの強引なことばの動きになってしまうが、この「自分の肉体」と、一般的に「自分の肉体ではない」と言われているもの、たとえば「自分の肉体」と「寒椿」を「つないでいるもの(ひとつにしているもの)」が、「口語」なのだ。「意味」を超える「肉体」の感じなのだ。
「だァらりと、お低頭(じぎ)バしながら咲(さ)いとっだよ」は「だらりとおじぎをするように咲いていたよ」という「意味」であり、その「標準語」のなかにも「肉体」と「寒椿」の連続性はあるのだが。つまり、「だらりとおじぎをする」ということばをいうとき、「肉体」はそのことばの指し示す運動を「肉体」そのものとして反芻している。くりかえしているのだが。
それを「口語」でいうとき、そこに「論理」以上のものが紛れ込んでくる。その独特の口調を共有する「他人の肉体」が紛れ込んでくる。標準語でも「他人の肉体」が紛れ込んでくるだろうけれど、標準語の場合は、その「他人」を特定できない。「口語」の場合、「他人」は、その「口語」が話される「土地の人」に限定される。おなじことばを話しながら、おなじことばで「肉体」をみつめてきた人。「体温」を感じることができる人に限定される。
で、その「つながり」は「肉体」だけのつながりでもない。「低頭」という「漢字(熟語?)」をつかないがら、新井は「おじぎ」ということばを表現している。頭を低くするという漢字で整理された「肉体」の動きがそこにあるのだが、そういう「肉体」のととのえ方、ととのえる力としてのことばの「伝統」のようなものも、そこにはある。その土地では「お辞儀」は「お辞儀」という抽象的なものではなく、実際に「頭を低くする」という「肉体」の動きであり、そういう「肉体の動き」をともなわないものは「おじぎ」ではないのである。そういうことを「共有する肉体」が「土着している肉体」でもある。「肉体の動き」をとおして、そこに生きるひとの「肉体」はつながる。
「肉体」というのは、「野生」(なまのもの)だけではない。「暮らし」があるから、そこで自然にととのえられるものもある。洗練がある。そういう、その土地独自の(その土地にいっしょに暮らすひと)独自の洗練というものもある。
そして、その「独自の洗練」として根強く引き継がれているが、「言い回し」なんだろうなあ。
「お低頭(じぎ)バしながら」の「バ」。
私は簡単に「バ」を「を」と読み直して「おじぎをしながら」と書いてしまうのだが、このとき私はきっと「頭を低くする」という「肉体の動き」をどこかで半分くらい落としてしまっている。「お低頭」が「おじぎ(お辞儀)」にかわってしまっている。「肉体」ではなく「意味」として、ことばを読んでしまっている。
この「バ」は「標準語」の感覚からすれば、未整理の「ノイズ」ということになる。「バ」ではなく「を」と言い直した方が、多くのひとにつたわる。しかし、「バ」を「を」と言い換えたとき、きっと「お低頭」も無意識に「おじぎ(お辞儀)」にかわっていて、そこには「肉体の動き」は消え、抽象的な「儀礼」が残る。
この抽象的なものは、きっと「合理的なもの」でもあり、「合理的」だからこそ、世界に流通していくのだが、それでは「ノイズ」のもっている豊かなものが減ってしまう。
視点を変えて、この「ノイズ」こそが「純粋なもの」であり、整理された「を」、「文法」を強要してくるものを「暴力」ととらえるとどうなるだろう。「合理的」を名目に「文法」を強要する「暴力」。その「暴力」のなかで苦しむことば。苦しむ「口語」。
ということを考えると。
と、ここから、私は飛躍してしまうのだが。脱線してしまうのだが
きのう読んだ石田瑞穂『耳の笹舟』。石田の「心因性難聴」が聞き取っている「音」というのは、この「暴力」と関係があるのでは、という気がする。「肉体の連続性」(肉体はすべてひとつ)という「野蛮/未整理」を「意味」で整理するとき、肉体が知らず知らずに傷つく。そのために耳に変調が起きてしまう。そういうこともあるのではないのか。耳は「意味」を「肉体」のなかからもう一度取り戻さないと、また苦しむことになるのではないのか。
で、さらに、ここから私の考えは脱線、飛躍して、ほとんどでたらめになるのだが。
石田の詩のなかに、鳥と外国語が何回か登場する。その部分が非常におもしろい。石田の耳も健康に動いている。
たとえば。
ボォホウ ボォホウ という鳴声が聴こえる
あれはなに? あれは ええと
鳴かないウグイス ですね
こんどは 鳴かないウグイス! ぼくはその
日本語には存在しないじつに詩的な鳥名に
びっくりしてしまう (「雪わりのバラライカ」)
ロシア語から日本語へ。辞書を引きながらサーシャが答えている。そこに「知性」の統御(意味)をたたき壊すものが紛れ込む。「意味」と無縁の「肉体」のつながりのようなものだ。梟を「鳴かないウグイス」というときの「鳴かない」には、きっと「日本人の肉体」とは違うものが紛れ込んでいる。それはいったい何か。わからないけれど、そのわからない部分に、石田の共有してこなかった「肉体」がある。それが、石田の「肉体」そのものを活気づかせている。「耳」を健康にして、「耳」をびっくりさせている。
「肉体」が健康に動いているから、ここの部分は、とても美しい。
で。
と、ここから新井の詩に戻るのは、強引を通り越しているかもしれない。暴力的かもしれないが。
「おじぎ」を「お低頭」という「肉体の動き」でつかみとったり、「を」を「バ」と言ったりするところは、何か「鳴かないウグイス」に似たところはないだろうか。「鳴かないウグイス」ということばを聞いて、石田が思い出すこと(思うこと、さらにその思い出と肉体との関係)は、「バ」を「お低頭(じぎ)」を読んだときに私たちの「肉体」のなかで起きていることと似ていないだろうか。
何かが違う。けれど、その「違い」は瞬間的に「違い」ではなく、「共通」のものを「肉体」のなかに探している感じ。そして、それが「何か」きちんとことばにして再現することはできないのだけれど、一瞬「わかる」と思ってしまうこと。「鳴かない」も「ウグイス」もわかってしまうけれど「鳴かないウグイス」はわからない。「お低頭」も「バ」も正確にはわからないが、「肉体」は納得してしまう。「鳴かないウグイス」と「バ」「お低頭」では起きていることは逆向きの動きなのだが、動かし方はおなじというような感じがする。
この「変な感じ」は、たぶん「肉体のノイズ」なのだ。そして「肉体のノイズ」があるから、逆に「意味」が正確に言われたことばよりも強く胸に迫ってくる。「あたま」でことばを処理するのではなく、「肉体」がショートカットで処理してしまう。
そういうものがあると思う。
そしてここから私はさらに飛躍して、端折って書いてしまうのだが(私は40分すぎると、目が疲れてモニターを見るのがつらくなる。つまり、書けなくなるので)、新井の書いている「口語(土地ことば)」と年増女の「標準語」が出合うとき、男の方に「肉体的変化」が起きる。
「あのひとと同(おな)じ靴下(くつした)」、妙(みょう)に通(とお)ったその声(こえ)が、こっぢの背(せ)すじサ、ひゃッと走(はし)って。
ことば(声)は、「意味」ではなく、「肉体」そのものなのである。「口語(土地ことば)」で「肉体」を隠していたのに、そこに突然「標準語」がぶつかってくると、男は「丸裸」になってしまう。むき出しの「欲望」になってしまう。女がもし「土地ことば」で、「おらのお父(とう)と同(おんな)じ靴下(くつじた)バはいとるねえ」(テキトウに書いてみた)と言ったのだとしたら、欲望は「ひやッ」としたものではなく、もっとぬるい感じ、なめるような感じで男の体を刺戟しただろう。
男と女がセックスをするにしても、それは「きのうのつづき」のようなセックスなるだろう。「土地」によって「共有」されたセックスになるだろう。「土地のひと」がするセックスになって、秘密だけれど秘密じゃない笑い話になるだろう。
そういうセックス、あるいは艶笑話は、きっと「ノイズ」なのである。「ノイズ」が人間をスムーズに動かしている。ことばを、「肉体」になじみやすいものにしている。こういうところでは、石田の経験したような「難聴」は起きないなあ、というようなことも思った。
きょう私が書いたことは、「詩の評価(批評)」にはなっていないが、「詩の感想」の根幹であると私は思っている。私は「意味」ではなく「ノイズ」に「詩の強い力」があると感じている。その「ノイズ」をどうやって「ノイズ」という表現をつかわずに、「強い力」そのものとして、ひっぱり出すことができるか、というようなことを考えたいと思っている。
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