藤井晴美『夜への予告』 | 詩はどこにあるか

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藤井晴美『夜への予告』(七月堂、2015年10月30日発行)

 藤井晴美『夜への予告』は、私にとっては、藤井の三冊目の詩集である。何冊出しているか、知らない。その三冊を読んできて、藤井晴美が女なのか、男なのか、よくわからない。「晴美」を「はるみ」と読めば女か、「はるよし」と読めば男か。わからない。好きになっていいのか、嫌いと言った方が安全(?)なのか、よくわからない。ほんとうにいい詩なのか、怖いもの見たさ(?)でいい詩であると思い込もうとしているだけなのか。うーん、わからない。

 「みんな知っている、すべて知っている」という作品。

ここから
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ここまで
の間 きみは何も知らない。
ぼくがどんな気持ちでいたか。

 もちろん、知らない。書かれていないので、知ることはできない。知らないけれど、「わかる」といいたい感じがする。何が「わかるか」といえば、ひとは誰でも「ぼくがどんな気持ちでいたか」と言いたいときがあるあるということが「わかる」。その「わかる」は「----」ではさまれた「あいだ」にあるのだから、「どんな気持ち」の「どんな」は言い換えができなくて、うーん、困る。
 禅か何か(?)に「にんも」というような変なことばがあったような気がするなあ。「そのような」としか言いようのない何か。「そのような」と繰り返して、つかみとる何か。その「そのような」に似ている「どんな」。
 ほかのことばに言い換えると、きっと違ってしまう。「わかっている」のに言い換えられない何か。「知らない」何か。「知らない」けれど、「わかる」。
 と書いて、私は、困ってしまう。
 藤井は「みんな知っている、すべて知っている」と「知る」ということばをつかっている。私の感覚では「知る」ではなく「わかる」なのだが、そうか、藤井は「知る」という動詞で世界をつかむのか。
 「知る」と「わかる」の違いのなかで、私は永遠に「誤読」しつづけるのだろうなあ。藤井が女か男かわからない、好きになりたいのか、嫌いになりたいのか、わからないまま、ああでもない、こうでもないとことばを書きつづけることしかできないんだろうなあ。
 と思っていると、

拝啓
ぼくはあなたに手紙を書くわけですが、たとえば
ここから
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ここまでぼくが何を考えていたか誰にも分からないようにぼくには何も書けないので、いつかぼくに会ってくれるでしょうか?

 前に書かれたのと同じような構造のことばが出てくる。この部分には「間」ということばは書かれていないが、「の間」を補って、

ここまで「の間」ぼくが何を考えていたか誰にも分からないようにぼくには何も書けないので、いつかぼくに会ってくれるでしょうか?

 と読んでしまう。そうすると、そこに書かれていることは非常に似てくるのだけれど、よく読むとまったく違うことに気づかされる。
 前半は「知らない」という「動詞」が動いていた。こんどは「分からない」という動詞が出てくる。「知る」と「分かる」はつかいわけられている。
 「知る」と「分からない」とは、どう違うのか。

 前半の「知らない」は「きみは何も分からない。/ぼくがどんな気持ちでいたのか。」と書き直しても、「意味」は通じる。あるいは、そういう言い方には「違和感」がない。「日本語」としてなじむ、と言える。
 しかし、後半の「分からない」は「ぼくが何を考えていたか誰にも知らないようにぼくには何も書けないので」と書き直すと、私の場合「日本語として変」と感じてしまう。そういう言い方は、私は聞いたことかない。「知る」をつかうなら「知られないように」になるのかな。あるいは、その受け身の形から「分からないように」は「分かられないように」と考えてみることも必要があるのかな?
 「知る/知らない」「分かる/分からない」という動詞だけではなく、そのあとにつづく「ように」も影響しているのかな?
 
 たぶん、もう一度、最初の部分にもどって考え直した方がいいのだろう。
 「ぼくがどんな気持ちでいたか」「何も知らない」。けれど「わかる」。このときの「わかる」は推測できるである。そして、推測できるのは「ぼく(藤井、と仮定しておく)」がしてきたことを「私(谷内)」がしてきたからである。私の肉体が、私のしてきたことを覚えていて、思い出す。「私の気持ちは、誰にもつたわらない。どんな気持ちでいたか、誰も何も知らない」と感じたことを思い出すからである。
 「わかる」は「他人」を「わかる」のではなく、自分を「わかる」のである。自分のこととして「わかる」のであり、それは「思い出す」ということなのだ。「過去」が「わかる」。「時間」が「わかる」。
 自分がしてきたこと(自分の肉体が体験してきたこと)は、「わかる」が体験していないことは「わからない」。体験したことかないことは、新しく「知る」のである。「未知」を「未知」ではなくするのが「知る」。
 この未知を「知る」ということを、ときどき「わかる」とも言う。そのとき「知る」は正確には「知った」と「過去形」にかわっている。自分の「肉体」のなかに、とりこんでしまっている。
 あるひとはいつも乱暴だけれど、ある日ケガをしている犬を助けているのを見る。そのひとが優しい気持ちを持っているということを、私は発見する。つまり、「知る」。そして、そのひとが優しいひとだと「わかる」。「知る」は「わかる」になるが、「わかる」は「知る」にはならない。日常の世界では。
 科学の世界では逆もあるかもしれない。理論上は、こうであると「わかる」。そのあと実験によって、その理論が証明される。そのとき、理論が新事実として生まれてくる。その生まれてきたものを「知る」ということがあると思う。素粒子の発見など、そういうものだ。理論が、あるものを「わかる/分節する」。そして実験が、それを証明する。「分節」の正しさを具体化する。具体的なものが「知る」であって、「知る」までの仮定が「わかる」である、と言い直すと、なんだか論理が逆転しているような……。

 脱線した。

 また、あとから引用した部分にもどってみる。
 「わかる」とは別の動詞が、その文で重要な働きをしている。「書く」という動詞。

誰にも分からないようにぼくには書けない

 これは逆に言えば、

書けば誰にも分かる

 ということである。
 何を書く? 文字を、ことばを、書く。
 ことばを書けば、ぼくが何を考えていたか、誰にも分かる。だから、書かない。そして、この「わかる」は「知る/知られる」でもあるね。
 書けば、ことばにすれば、「何を考えていたか」「どんな気持ちでいたか」、「知られてしまう」。「わかってしまう」。
 ことばになっていないものは、「知る」ことができない。ことばを繰り返して、だれかに伝えることのできる「もの(対象)」にはできない。しかし、ことばになっていないものでも、私たちは「わかる」。ただし、この「わかる」は「正確」ではない。
 ことばとして書かれたものは、そのことばをそのまま転写して「正確」に伝達できる。けれど、ことばになっていないものは、客観的な正確さでは伝達できない。そのかわり主観的な強さを「わかる」という形でつかむことはできる。主観的に弱いときは「わからない」になるかもしれない。

 「わかる」は主観なのかもしれない。「わかる」対象も「主観」になるのかなあ。「気持ちがわかる」は「相手の主観がわかる」。「考えがわかる」の「考え」は、「考え」が「事実/形而下」ではないという見方をすれば、それも「主観」の一種。
 「わかる」とは「主観になる」ということかな?
 人間関係で言えば、「わかる」は相手の主観が「わかる」。「知る」のは、きっと主観以外の部分を指して「知る」。

 あ、だんだん、詩から遠ざかっていくような気もするのだが……。
 でも、「主観的」に言い直せば、これが私の藤井のことばへの接近なのだ。
 で、たとえば、あとの引用の前の、ぽつんと置かれた一行。

勉強もしないのに一人前に鉛筆を削る。

 これが、「わかる」。「わかってしまう」。
 もちろん私の「わかる」は「誤読」なのだが、それでも私は自身を持って「わかる」と言ってしまう。
 鉛筆を削るということを、私はしたことがある。「肉体」が覚えている。その「肉体」が覚えていることのなかには、「勉強もしないのに」という「状況」も含まれている。「肉体」が覚えていることが、藤井の「肉体」と重なり、その「肉体の重なり(セックス)」のなかで、自分の「主観」を他人の「主観」と行動してしまう。「一体」になってしまう。
 あ、気持ちがいい。
 このときのことばのセックス。そのとき、相手が私の主観(気持ちがいい)と合っているかどうかは、わからない。私のひとりよがり。つまり「誤読」。でも、詩を読むこともセックスと似ていて、最初から二人が気持ちよくなれる、いっしょにエクスタシーにたどりつく、どこかへ行ってしまうなんてことはないだろう。最初はどちらかがかってに興奮してしまう。「誤読」してしまう。

 そういう「誤読」を誘うことばが、藤井の詩のなかにはびっしりつまっている。
 「主観」の強いことばが、その強さのままことばを破壊している。破壊されたことばが「客観」として、あふれている。たとえば、「鉛筆」なんて、だれもが知っている「客観」。「削る」も「客観的」に再現できるありふれた肉体的行動。でも、それは単純であるがゆえに、深く深く「肉体の記憶」そのものに触れてくる。
 あ、そこ、そこが感じる……という感じ。

 で、困るでしょ?
 藤井が女か男かわからなかったら。そのまま「誤読」してもいいのかどうか。詩を読むこと(セックスすること)は、自分が自分でなくなってもかまわないと思ってすることだけれど、女だと思って誘ったら男だった、男だと思ってセックスしたら女だった、ということでは、「主観」が混乱してしまう。「主観」の危機だ。
 でも、誘われるなあ……。
 そこには破壊された肉体がある、といえばいいのか、肉体を破壊して動く主観があるといえばいいのか。破壊されても動く肉体の強さがある、その肉体をととのえることばの強さがある。その強いものに引っぱられる。引っぱられる快感と、その力をねじ伏せてみたいという欲望が動くなあ。
 書くということは、何かを客観化すること(知ることができるようにすること)なのだけれど、すべてを書けるわけではないから、書くことはどうしても知られないようにする(隠す)ことを含んでしまう。そして、ひとはそういうことばに触れて、そこに「あ、ここには知られないようにしているもの(隠しているもの/こと)がある」とも感じてしまう。わかってしまう、ことがある。
 その緊張感が、藤井の詩(ことばの肉体)の魅力だと思う。


破綻論理詩集
藤井晴美
七月堂

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