監督 オリビエ・アサイヤス 出演 ジュリエット・ビノシュ、クリステン・スチュワート、クロエ・グレース・モレッツ
三部から成り立っているだが、映像がそれぞれまったく違っているのでおもしろい。
第一部は列車のなかからはじまる。列車の揺れでカメラが揺れる。人物が揺れる。映像が安定しない。列車を降りて車に乗ると、こんどはガラスに町の風景が映り込み、車に乗っている役者の表情がはっきりとは見えない。町の風景も車に映っている影では全体像がわからない。この映像のなかで、ジュリエット・ビノシュを育て上げた劇作家の死、彼女の出世作となった戯曲の再演(ただし、役どころは20年前とは逆。ジュリエット・ビノシュは若い秘書ではなく、若い秘書によって自殺に追い込まれた上司の役をやることになる)の話が交錯する。ジュリエット・ビノシュは何かの賞の授賞式に、劇作家のかわりに出席するのだが、そこへ昔の共演者(男)もやってくる。そういうなかで、揺れるジュリエット・ビノシュの視線、不透明なジュリエット・ビノシュの感情をそのまま映像にしたような感じだ。
第二部は、劇作家の残した別荘(家?)と自然が舞台。映像はくっきりしている。戯曲のタイトルとなった「***の蛇」という、山を越え、谷に流れ込む雲が唯一不透明、不安定な存在だが、その不安定な流動がとても美しいというのが、なんとも不思議な矛盾として印象に残る。
その、人間の心情などに見向きもしない自然の非情の美しさのなかで、ジュリエット・ビノシュは芝居の下稽古をする。若いジュリエット・ビノシュがやった秘書の役を、実際の若い秘書が演じる。その「演技」に、ジュリエット・ビノシュは何を見たのだろうか。自分の過去だろうか。それとも、秘書によってあぶりだされる40歳の女の「あせり」のようなものだろうか。若さの衰えと、若さをうしなうことへの絶望のようなものだろうか。若さへの嫉妬、嫉妬を感じる自分を新しく発見したかもしれない。
瞬間瞬間に表情がかわり、声がかわるのだが、それはジュリエット・ビノシュが演じている「役柄」としての変化なのか、それともジュリエット・ビノシュの「地」なのか、感情の噴出なのか、区別がつかない。特に、怒りのシーン。「秘書(役どころ)」の態度に怒りが爆発して立ち上がり煙草を吸う。そのとき、ジュリエット・ビノシュは演じているのか。怒っているのか。
怒っているのは、「秘書」の態度に対してなのか。「役どころ(上司)」を演じなければならないということに対してなのか。「芝居」ではなく、そういう芝居をしなければならない自分自身への怒りのように見える。
その「怒り」は「役どころ」を超えて、現実に反映する。秘書に対する怒りとしてあらわれてしまう。ジュリエット・ビノシュには、そのつもりはないかもしれない。けれど秘書の方が、ことあるごとにぶつかってくるジュリエット・ビノシュに対して、「私へ怒りをぶつけないでくれ、私は稽古の相手をしているだけなのだ」と訴える。
こういうことに、ジュリエット・ビノシュの若いときを演じる女優の姿、彼女へのジュリエット・ビノシュの蔑視のようなものが混じりこむ。若さへの蔑視が、かろうじてジュリエット・ビノシュの「尊厳」を支えている。熟成がジュリエット・ビノシュを支えるのではなく、他者への蔑視が彼女を支えている、ということにジュリエット・ビノシュは気づいていない。
無言の自然を背景に、ほとんど二人だけで演じられる世界をとおして、ふたりの心理がくっきりと浮かび上がる。
この第二部の終わりは、また、とてもおもしろい。「***の蛇」という流動する雲海のようなものを見に行くのだが、それを見る寸前に若い秘書はジュリエット・ビノシュの対応が我慢できずに、彼女のもとを去ってしまう。その秘書を探して、ジュリエット・ビノシュも「***の蛇」を見逃してしまう。見逃してしまうのだけれど、そこには人間の思惑など無視して、「***の蛇」が美しく動いている。それを映画ははっきりと映し出す。この美しさは、冷酷でさえある。
第三部はロンドンでの芝居(の稽古)。ここでいちばんおもしろいのは、その「舞台」のセットである。会社のなかなのだが、壁がすべて透明な硝子で仕切られている。他人のやっていることが「丸見え」なのである。
もちろん第一部でも第二部でもそれぞれの登場人物の「感情」は見えるのだが、「見える」ということが映像として「視覚化」されていない。映像に「見える」が象徴されていない。しかし、第三部ではそれが「象徴」をとおして語られる。
ジュリエット・ビノシュは他人のすべてを見ているつもりだが、逆である。彼女には見られているつもりはなくても(自分を隠しおおせているつもりでも)、すべては他人に見られてしまっている。すべては彼女の思いとは逆に動いている。
ジュリエット・ビノシュは若い役者に対して、一か所注文をつける。第二幕の終わり、部屋を出て行くとき「間」をおいてほしい。そうすると観客がジュリエット・ビノシュの存在に気をとめる。これに対して、若い女優は、そんな演技はしない、という。もうその段階で誰もジュリエット・ビノシュのやっている「役」のことを忘れている。見捨てている。「忘れられた存在なのだ」と宣告する。それは「役」のことか、それともジュリエット・ビノシュのことか。ジュリエット・ビノシュは自分自身のことだと受け止める。そこで映画は終わる。
この映画には、何があったのか。この映画は何を描こうとしたのか。おそらく人間にはどうすることもできない何か、「時間」が過ぎ去っていくということを、人間はどう受け止めるべきか、ということかもしれない。「時間」は第二部の終わりの「***の蛇」のように、人間が見ていようが見ていまいが、無関係に動いていく。その動きのなかに、ときにとても美しいものがあらわれる。ただし、それを「美しい」ととらえることができるは、特別の「位置」からである。「***の蛇」ならば、その動きが見える峠。
もし「***の蛇」のなかにいれば、何も見えず、道に迷ってしまうだろう。視界は雲にさえぎられて、わかるのは自分の「肉体」の存在だけである。それがどのようなものか、「客観化」できない。「いままでの自分」を手がかりにして、そのまま「自分」がいると思い込んでしまう。
第二部でジュリエット・ビノシュはくっきりと描かれるが、その「くっきり」は彼女にはわからない。彼女は「***の蛇」のなかを手探りで歩いているにすぎない。
ジュリエット・ビノシュの「思い込んでいる自分の姿」はどこにもない。ひとが(観客が/若い女優が)見るのは、ジュリエット・ビノシュをとおしてみるのは「時間」が過ぎ去ったということだけである。「時間」は過ぎ去った。
さて、これをどう受け止めるか。何度か映画のなかに「成熟」ということばが出てくるが、受け止め方のなかに「成熟」があるということだろうか。
もし、ジュリエット・ビノシュが自分自身を美しく見せるなら(見せたいなら)、彼女は「***の蛇」になるしかないのだ。あるとき偶然姿をみせる「時間」となって、ひとの視界を通りすぎるしかないのだ、と言っているように、私には思えた。
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この映画は脚本がすばらしい。ジュリエット・ビノシュと二人の若い役者もすばらしい。気に食わない部分があるとすれば、音楽である。うるさい。特に第二部の出だしと終わりは音楽がない方が自然の美しさが際立つと思う。音楽が「感情」をむりやり引き出そうとしているようで、ぎょっとする。黒星を4個にしたのは音楽が気に入らなかったから。
(KBCシネマ2、2015年10月25日)
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