小川三郎『フィラメント』の「黄金色の海」で、私は立ち止まった。
あたり一面
黄金色の海だ。
そのなかに
ひまわりが
ただ一輪だけ
咲いている。
ひまわりだけが
ただしいかたちをしている。
手を伸ばして触れてみると
ひまわりは
風に吹かれて
ふるふるとした。
それはまるで
私のことでは
ないようなのだ。
この五連目の「それ」とはなんのことだろう。「ひまわり」だと思って私は読んだ。あるいは、ひまわりが「風に吹かれて/ふるふるとした」(ふるふると震えた/ふるふると揺れた)という「こと」を指しているとも読むことはできる。どちらにしろ、それは「私」ではない。「ひまわり」は「私ではない」。
これは自明のことなのに、小川は「私のことでは/ないようなのだ。」と書いている。
このことは、逆に言えば、小川は「ひまわり」、あるいはひまわりが「風に吹かれて/ふるふるした」ということを「私のこと」として感じている、感じることを欲望している、ということでもある。ほんとうは、「私はひまわりだ」と信じている。それなのに「わたしのことでは/ないようなのだ」。
「比喩」が二重になっている。
「私はひまわりだ」というのが最初の「比喩」だ。それは二連目の「ただ一輪」のことである。三連目で「ただしいかたち」と言い直されている。それは「ただ一輪」であるために、風を正面から受ける。そのことを知らせたくて「ふるふる」と動く。
ただし、この三連目の言い直しは微妙である。比喩としての「ひまわり」に、比喩ではない「私の手」が触れる。「私」が「ひまわり」なら、「私」は「ひまわり」に触れることはできない。でも、触れる。
このとき「私」は、やはり比喩なのだ。現実というより「ひまわり」にとっての比喩。言い直すと「私はひまわり」という比喩ではなく、「ひまわりは私だ」という比喩がここにある。「ひまわり」が主語。
比喩の中で「ひまわり」と「私」が交錯し、見分けがつかなくなる。そこにある(いる)のは「ひまわり」か「私」か、わからなくなる。「比喩がある」ということだけが、わかる。
「比喩がある」とは、どういうことだろうか。
「比喩」として、何かを語りたいという欲望が、そこにある、ということだ。その語りたい欲望以外は、何もない。語りたいという欲望は、「ことば」となって、そこに噴出してきている。そして、そこに「ことば」が存在する。存在することになる。「私」でも「ひまわり」でもなく、「ことば」であること。
その一瞬。
それを次のように、
それはまるで
「ことば」では
ないようなのだ。
それはまるで
「論理」では
ないようなのだ。
「私」を「ことば」「論理」と置き換えて読むといいのかもしれない。「比喩」そのものと。置き換えてもいいかもしれない。
比喩にもどって見る。
「ひまわりは私ではない」「私はひまわりではない」というのは、「論理(ことば)」としては正しい。けれど、「私はひまわりではない」という論理が正しいからこそ、その正しさを裏切って「私はひまわりである」というときに比喩が成立する。
比喩とは「嘘」であり、間違ったものである。「論理」ではない。「論理」を超越したことばである。比喩は、そうやって詩そのものになる。
それはまるで
ことばでは
ないようなのだ。
は、
それはまるで
「ふつうの」ことばでは
ないようなのだ。
であり、それは「論理を超越した論理(ことば)」、つまり詩である。
それままるで
比喩で
あるようなのだ
ということになる。
私ではない「ひまわり」を「私ではない」というときに噴出してくるのは、「正しい論理」ではなく、「論理を超越したことば=詩」であり、その「論理」自体が比喩であることによって、この五連目は詩になる。
世界そのものになる。
「私」が「ひまわり」であるとき、すでに「私は私ではない」。それなのに、それが間違いであるかのように「わたしのことでは/ないようなのだ」と感じる矛盾。そこに詩があり、また、その詩を支えているのが「ようなのだ」という表現、比喩の形で語られるのがおもしろい。
あ、この「ようなのだ」というは比喩ではなく、推測と呼ばれるものだが、その推測のなかに「ようなのだ」という比喩の表現が含まれることが、この詩の比喩を活性化させているとも言える。
「私はひまわりだ」と言えば「暗喩」。「私はひまわりのようだ」と言えば直喩になる。「ないようなのだ」の「よう」は推測であると同時に直喩であると読むことができる。そのことが、この作品をおもしろくさせている。
比喩の中で比喩が動く。それはこの詩全体の構造でもある。
「黄金の海」は「現実の海(黄金色の海)」、たとえば朝焼けの海、あるいは夕焼けの海のことではない。(真昼の海なら、黄金ではなく白銀、真夜中の月に輝く海も白銀の海、ということになるかな?)
「あたり一面」ということばを手がかりにすれば、「私」は「海」のなかにいる。「海」のなかに「ひまわり」があるというのは不自然で、「あたり一面のひまわり」を小川は「黄金色の海」と呼んだのだと推測できる。
「黄金色の海」自体が、すでに比喩なのである。
「あたり一面」ひまわりなのだけれど、そのなかの一本(一輪)を小川は識別している。一輪に目をとめている。その一輪だけが「ただしいかたち」に見える。それが「私」。「ただしい私」。
こういう比喩が生まれるとき、小川は「私の正しさ」は孤立していると感じているのかもしれない。正しいのに孤立してしまう。震えてしまう。そういうあり方は「私」なのだけれど「私ではない」という思いもある。正しいのなら孤立しないはず、という「論理」がそう思わせるのかもしれない。
しかし、こういう苦悩は、他者にはつたわらない。
そういうことが、詩の後半で語られる。
黄金色の海では
すべてが輝いている。
ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。
「ひとにまつわる痛み」とは「私(小川)にまつわる痛み」である。そういうものを「世間」は気にしない。どうでもいい。だれだって自分の痛みだけで十分であり、他人(小川)の痛みなど気にしていられない。
そういう「世間」が「比喩」の「ひまわり畑(一面のひまわり)」として動いている。このとき「ひまわり」は比喩であると同時に、比喩を突き破って現実でもある。植物は人事(人情)などに配慮をしない。「非情」の美しさをもってい輝いている。そして、それが「非情の美」として認識されるとき、それは「世間」という比喩と交錯し、そのなかに溶け込んで行く。
どのことばが「比喩」で、どのことばが「事実」か。
それはいちいち分析してもおもしろくない。比喩と事実が混じりあうというのは、「現実(事実)」と「私の思い」が混じりあうというのに似ている。それは相互に影響し合いながら動いていく。混じりあったものが「現実」であり、その「現実」がことばでととのえられたものが詩なのだ。
黄金色の海が
私の背中に
ざんぶと波を
押し寄せる。
それで私も
私の心も
いちだんとまた
ふるふるとした。
もう、ここでは、「ひまわり」という比喩は消え、かわりに「私」と「私のこころ」が前面に出ている。
もうこれ以上
光はいらない。
私はじゅうぶん
透明であり
じゅうぶん
価値が
うしなわれていた。
私は大きな海のなかに飲み込まれている。ひまわりの海に飲み込まれている。どの一本が私であるか、それを知っているのは私だけである。他のひとにとっては識別ができない一本、価値のない一本、いわば透明な存在にすぎない。
けれど、その透明、無価値の一本を、私は識別する。
ただひまわりだけが
ただしいかたちを
ただかたちだけをしている。
あたり一面
黄金色の海だ。
比喩にして語るしかないこころがある。比喩の中でしか動けないころがある。
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