山本和子「扉の言葉」ほか | 詩はどこにあるか

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山本和子「扉の言葉」ほか(「扉」5、2015年08月10日発行)

 山本和子「扉の言葉」が掲載されている「扉」には「金井教室作品集」と書かれている。山本は、金井雄二の教室で詩を学んでいるのだろう。
 その作品。

巨樹巨木を見に行く
わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに
感謝
詩を書き続ける仲間に
大感謝
なにより元気な自分に感謝
巨樹巨木にお礼まいりと
やさしいわたしになりますように
願かけをしてきます
そして怖い詩が書けますようにと

 最後の「怖い詩」がおもしろい。その二行前には「やさしいわたし」ということばがある。「やさしい」と「怖い」は反対のことばではないが、反対に近いと思う。一種の相反するものが「わたし」を中心にしてつながっている。その振幅の大きさのようなものが、きっと詩の「手がかり」というか「入り口」のようなものなんだろうなあ、と思う。
 「やさしい詩が書けますようにと」だったら、きっとおもしろくない。「やさしいわたし」が「やさしい詩」を書くと、嘘っぽい。この嘘っぽいは、ちょっと説明がむずかしい。わかりきっていて、どきっとしない、ということかもしれない。わかりきっているので、わかりきっていることを言われると、逆に警戒してしまう。身構えてしまう。それは、もしかすると「書いたひと」ではなく「読むひと」の問題かもしれないのだけれど。あ、私の問題なのかもしれないけれど。書いたひとのことばのなかに「嘘」があるというよりも、「身構える」私の何かが「嘘」を呼び寄せるのかもしない。「怖い」と、この「身構え」ができない。「身構える」前にやってくるから、「怖い」のだ。
 「怖い詩」というのは、読者が「身構える」前に、読者にとどくことば、と言い換えることができるかもしれない。そうだね、そういうことばが書きたい。私も。
 この最終行の前にも、耳を澄ますと聞こえる「声」がある。「怖い」声がある。

わたしの扉が開きました
年を重ねるごとに
好奇心が生まれることに

 この三行のうちの「扉が開く」というのは「比喩」。それは「好奇心」と言い直されている。年を重ねるごとに「好奇心が生まれ」、「わたしの扉が開く」。どこに向かって? 「知らない世界」へ向かってである。その「知らない世界」というのは「知らない」がゆえに、「怖い世界」である。
 「好奇心」とは「怖いもの見たさ」のことである。
 詩を書いていると(仲間と詩を書いていると)、だんだん、「知らない世界」が見えてくる。わっ、怖い。どきどきする。でも、不思議と楽しい。わたしも他人を(仲間を)びっくりさせてやりたい。怖がらせてみたい。
 それは「巨樹巨木」の「巨」のようなものかな? 「怖い」というのは。いままで見たことがない何か。「樹/木」を超える「巨」のようなものかな? そういものがあるのは、わかっている。けれど、まだ「肉眼」では見たことがない何か、あるいは「肉眼」でしか見ることのできない何か、かもしれない。
 読みながら、ことばが互いに呼び掛け合っている--その声が聞こえる詩である。

 「いいこと」という作品は、足を骨折したときの一日を書いている。どこにでもありそうな「一日」である。

足を骨折して
いいことがあったのか

娘が来てくれたこと
一日が長いこと
夫が食事を作ってくれること
そんなことでは
ストレスは発散しきれないが
食事制限はなし
ギブスを付けてれば痛くもなし
と 一生懸命に自分に言い聞かす

ベランダから隣の双子の赤ちゃんの
泣き声が聞こえる
窓の向こうの夕空は
丹沢の山並をくっきりと画き
赤色の残るしっとりとした中に
一個、星が見える

めしが出来たぞ

 一、二連目は「散文」的である。「詩」の要素(?)は見当たらない。三連目も、書き出しは「散文」っぽい。
 ところが、

赤色の残るしっとりとした中に

 この一行は、どう? 「しっとり」は、どう?
 「しっとり」というのは「しっとり」濡れる、ということば(慣用句)があるくらいだから、「水分」となじみやすい。「しっとり」した肌といえば、水分が保たれた肌のことだ。
 でも、夕焼けの赤の「しっとり」は、どうだろう。「水分」を含んでいるのか。たぶん違うだろう。
 なぜ、「しっとり」と山本は書いたのだろう。「しっとり」とは、どういうことを指しているのか。
 「しっとり」水分を含んだ肌、水分を保った肌、ということばにもどってみようか。「しっとり」は「保つ」ということばとつながっている。「保つ」は「安定している」であり、「落ち着いている」でもある。「保つ」は「たくさん持つ」であり、「たくさん持つ」は「充実」でもある。「充実」は「濃密」でもある。落ち着いて充実している、静かな、濃密な、赤。
 たぶん、そういうことだろなあ、と私は想像する。
 で、それではなぜ、山本には「夕焼けの赤」が、その日「しっとり/充実/濃密」としたものに見えたのか。空がたまたまそういう状態だった、と言えばそれまでだが、きっと違う。
 「娘が来てくれた」「夫が食事をつくってくれる」というのは、「家族」が「家族」としての関係を「保つ」ということかもしれない。そんなことをしなくても「家族」ではあるのだけれど、なんとなくすごしていた「家族」がいつもよりも「近く」に集まって、「家族」という関係を「濃密」にしている。この「濃密(家族の充実)」が、「しっとり」とつながっている。
 こんなことがことばになるのは、山本が「やさしい」ひとだからである。「家族」というものに、非常に敏感なひとだからである。そして、その「敏感」がそのまま「しっとり」に深い陰影を与えるのだが、この陰影の与え方は、「怖い」と言えば「怖い」。そんな言い方を私は知らなかった。そんなときに「しっとり」ということばをつかうことを知らなかった。気づかなかった。そのくせ、そういわれると、その通りと思ってしまう。ぐい、っと引き込まれた。それ以外のことばはない、と思った。そこからぬけ出せなくなってしまった。あ、怖い。

 「正直」をもって、ことばと向き合っているひとだと思った。山本の書いている作品を「現代詩」と呼ぶひとはいないかもしれない。けれど「現代詩」である必要はない。そこにはたしかな「詩」がある。それをどこまでも「正直」に動かしていけば、それでいいと思う。

朝起きてぼくは
金井雄二
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