秋山基夫「河童池の昼と夜」は短い作品。
日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます
日が西に傾くとまた眠りにはいる
かすかな風が池の面を吹いて行き
浮かんだ葉っぱもいくぶん揺れる
月が昇ると暗い池の水が光りだす
睡蓮の花は闇を内部に抱きしめる
葉っぱに乗っかり蛙らは眠りこみ
白い皿のような月が水中で揺れる
最終行「皿」ということばだけで「河童」を呼び覚ますところが、とてもおもしろい。「河童の皿」といわず、あくまで月の描写のふりをしている。ことばの潜んでいる「共通認識」のようなものを刺戟しながら、読者の勝手な連想にまかせている。
何気ないことばだが、その最終行の「水中」もおもしろい。「水面」に浮かんでいるのではなく、「水の中」(水の内部)に隠れている。それが「河童」の生態を感じさせる。また、その水に「広がり」があれば「水中」は「水の真ん中」くらいの感じで響いてくる。「ほら、あの池の真ん中に」という具合だ。広い池のあやしげな感じが、また「河童」伝説とよく似合う。
「論理」になる前に、ことばが揺れて動いていく。
一連目の最終行の「いくぶん」もおもしろい。その前の行の「かすかな」と呼応しているのだが、ちょっと不思議。「かすかな」と書いたらつられて形容動詞「静かに」くらいのことばが動いていくのだが、そういう日常化したことばの連動を少しだけ断ち切っている。
そうか、「いくぶん」ということばはこんなふうにしてつかうと音そのものもくっきりと響いてくるのか、と感心してしまった。
前後するが、一連目二行目の「また」という短いことばも非常に効果的だ。「また」があるために、この光景が繰り返されていることがわかる。秋山が繰り返しこの光景を見ていることがわかる。秋山は、蓮の花が開いたり閉じたりという繰り返しを描いているだけなのだが、その繰り返しの時間の中に「河童」という存在しないものがあらわれてくるという「構図」が興味深い。
繰り返していると、そこには単純化されるもの(あるいは無意識に排除されるものといえばいいのか)と、逆に余分なものが紛れ込むことがある。「河童」は、たぶん、余分なもの。「妄想」である。
まあ、余分なもの(妄想)と言えば、光景を詩にすること自体が一種の余剰(妄想)みたいなものである。そんなことをことばにしなくても世界はいつもの同じように存在しているのだから、などと考えながら、不思議に楽しくなる。きっと余分なことが詩なのだろう。
で、余分なことをひとつ。
二連目の一行目。「暗い」は「黒い」ではどうだろう。「暗い」は次の行の「闇」と近すぎて、認識のなかで開く花が抱える「闇」をどこかで見たことがあるなあという気にさせてしまう。「かすかな」→「いくぶん」のような移行がない。「暗い=闇」という感じが「既視感」につながるのだと思う。
もっとも「黒い」にすると最終行の「白い」がわざとらしくなるのかなあ。
他人の書いた詩のことばをあれこれ入れ換えて考えるということを、詩人はあまりしないようだが、私は読むというのは自分のことばと作者のことばを比較してみることだと思っているので、こんなふうに動かしてみてしまう。
![]() | 秋山基夫詩集 (現代詩文庫) |
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