みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央) | 詩はどこにあるか

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みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央)(ポエムピース株式会社、2015年06月14日発行)

 みちる『10秒の詩』を読みながら、詩が「意味」として読まれていると気づく。たとえば、

思いは涙では滲まない
きれいになるだけ

 現実には「思い」は涙で汚れるということがあると思う。何かが汚れる。それが悲しくて泣く。でも、そのことを順序を入れ換えて考えてみる。「思い」が何かで汚れる。それが悲しくて泣く。そうすると涙は「思い」を汚した何かを流し去りはしない。涙は「思い」をもとのきれいな姿にもどす。
 そして、そのとき「意味」とは何か矛盾したもののぶつかりあいである。矛盾したもののなかから「美しい」につながる「意味」を選り分け、ことばにできたとき、それは詩になる。
 「美しい意味」が読まれている。それは、読んだ人の「こころの中」にだけある。それは見えない。見えないから「ことば」を手がかりに、それを「見る」。
 それがこの詩集では「詩」と呼ばれているのもだと思う。

私は「忘れないで」とは言いませんでした
あなたが忘れてしまうこと知っていたから
あなたも「忘れない」とは言いませんでした
忘れるはずがないと思っていたから

 ここにも「忘れる」「忘れない」という矛盾がある。「知っている」「思っている」という違いもある。この違い(矛盾)が、読者に何かを発見させる。人が二人いれば、その二人の思うことは「同じ」ではない。どこかで違っている。その違いが大きくなって、ひとは別れてしまう。
 知っていること、わかっていることを、それが動いているままの形でことばにするとき、そこに「時間」が「意味」として、姿をみせる。

 でも、「意味」は何かを押しつけられるようで(美しく生きることを押しつけられるようで)、いやだなあ、と感じたら。
 少しことばを変えて遊んでみよう。

カラダは洗えばきれいになる
心だって同じ
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 これは「思いは涙では滲まない/きれいになるだけ」という詩に似ている。泣くことで、起きたことを流し去り、前に戻る。ほんとうの自分、美しい自分に戻る、ということが「意味」の、「ほんとうの意味」である。
 で、この作品、「カラダ」を「ラクダ」と言い直してみるとどうだろう。「心だって同じ」というのは、この作品を「抒情詩(こころの詩)」にするのだけれど、「こころ(自分)」を自分と無関係なものに置き換えると、どうだろう。

ラクダは洗えばきれいになる
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 なんとなく、おかしいね。さっぱりするね。「ラクダ」は、このとききっと「こころ」の象徴なのだ。比喩なのだ。
 「こころ」「思い出」というようなことばを別な存在に言い換えてみると、別のことばの楽しみ方が広がると思う。



10秒の詩 ─ 心の傷を治す本 ─
みちる
ポエムピース