宇佐美孝二「しっぽの話」には「方言」が出てくる。そのためなのだろうが、ところどころに注釈がついている。そして最後に、種明かしのようなものが、注釈に紛れ込ませて書いてある。それを無視して読むことにする。いや、それを読んだので、その「注釈」を消すために、この感想を書く。「注釈」がつまらないのだ。
ヌートリアがな、
と独り暮らしの母が
ソーメンを啜っているぼくに言うのである
畑のもんをうっつくしょ食ってってまってな。
ほおっ。
そう言えば 家の西の、土地を掘り起こした跡地で
水がたまって池に変わり果てたところ、
そこに最近棲みついたというのだ。
ごがわいてな、
のうきょうで買ってきたネズミ捕り、
いまはべたっとはっつくやつがあるで
それをあちこち置いといたんだわ。
そしたらネズミ捕りの紙が、
なしんなっとった。
やつら、くっ付けたまんまどこぞか行ってまったわ。
あれらもよう知っとるで、
それから出てこんなあ。
「独り暮らしの母」が、息子が訪ねてきたのでソーメンを作って食べさせる。食べるのを見ながら、息子に話をしている。こういうときの話というのは、ほんとうだろうか。息子の関心をひきたくて話すのだろうか。
「ヌートリア」なんて、いるんだろうか。こういうとき、辞書を引いたり、ネットで検索したりするひとがいるが、私は、そういうことはしない。
間違っていてもいいから、自分の「カン」で読んでいく。その「カン」というのは、私はこんなふうに読みたいという「欲望」を別のことばで言い換えただけのものである。そこに書かれていることを正確に読むのではなく、私は私の「欲望」がどこにあるかを知りたくて読む、と言った方がいい。
私の「カン」は、そんなものはいない、と言っている。「ぼく(宇佐美)」も、そう思っているのだろう。母は子どもの反応に敏感だから、「信じていないな」とわかる。だから、追い打ちをかけるように、「ヌートリア」を自分にひきつけて語りはじめる。それがどんな生き物か、形とか、色とかで説明するのではなく「畑のもんをうっつくしょ食ってしまってな」と。この「嘘」はうまいなあ。思わず「ほおっ」と「ぼく」答えてしまう。この「ほおっ」はヌートリアを信じたというよりも、母の嘘の動き方に感心したということだろうなあ。「ぼく」は母が畑で何かを作っている、ということを知っている。母はだんだん作るのがめんどうになって、やめてしまった。でもやめてしまったというのが言いにくくて、「ヌートリアに食べられた」と言うのである。で、「ほおっ」と感心しながら、信じたふりをする。
母はさらに、息子が知っていそうなことをひっぱり出して嘘を補強する。「ほら、家の西の、土地を掘り起こした跡地で、水がたまって池に変わり果てたところ、あれをおぼえているだろう。あそこに棲んでいる」。嘘を完成させるためには「ほんとう」が必要なのである。「ほんとう」を含むことで、嘘は事実らしくなる。
この「ほんとう」のまじえ方が、とてもおもしろい。その場しのぎの思いつき。思いついてしまうから、そこから嘘に弾みがつく。それが二連目なのだが、いやあ、ケッサクだなあ。
「のうきょう」が具体的でいいなあ。母の生活は「のうきょう」なしでは成り立たないのだ。何でも「のうきょう」で調達してしまう。紙でできていて、べったりとはりつくネズミ捕り。「いまは」そういうものがある、というよりも、昔はあったなあ、と私は思い出してしまう。「いまは」ではなく、「いまも」あるかどうか、知らない。それを畑のまわりに置いておいたら、その罠にかかって、べたべたの紙をつけたままどこへ行ったか、もう出て来ない。
出て来ないなら、畑を作りなおせばいいのだが、そのつもりはない。ほったらかし。これで、嘘がばれてしまうのだが、母はそこまでは気が回らない。ちゃんと嘘を貫き通したという気持ちがあるのだろう。ネズミ取りが畑のまわりにないのはヌートリアがつけていってしまったため。「論理」としては、それで整合性がとれる。「あれらもよう知っとるで」というのは、生き物をもちあげて、嘘をごまかすのである。
そしてまた、この「あれらもよう知っとるで」には何か、動物に対する反応を超えた、母の日々の「感想」のようなものが含まれている。だれもかれもが、いろいろなことを「よう知っとる」。だまそうにも、だませない、ではなく、母の考えていることを見抜いていて、なかなか思うようにはならない。だれもが自分の世話だけにあけくれている。そういう老人が独り暮らしをしている集落の様子が、ちらりと、そこにのぞいている。
むかしはそんなもん、おらんかっただろ?
麺いっぱいの口で母の顔をのぞきこみぼくは訊く
そうじゃ、・・・いってぇどっから来たんだろな。
だまされたふりをしながら、「ほく」は、いちおう「むかしはそんなもん、おらんかっただろ?」と聞いてみる。聞き返さないと、聞いていることにならないから。母の独りごとになってしまうから。
宇佐美はやさしいんだなあ、と思ってしまう。
聞き返されることで、「話」は存在する。ヌートリアは存在したことになる。それでいいのだ。
頭の上 五〇㌢ほど描いてみる
体毛にねずみ捕り紙をくっ付けたヌートリアが
月の晩に 水の中から目をこらして
世間(こっち)の様子を窺っている
母も
ぼくも
互いに
ひっそりと笑い合うのだ
水から出てきたばかりのしっぽのある
ヌートリアの目付きをして
「嘘」を共有した。「嘘をついたんだけれど、わかった」「わかったよ、だけど、嘘つくな、なんて言わないよ」。そういう「やりとり」がここには隠れている。それが「世間」というものだ。それが老いた母と息子の「なじみ方」である。嘘をついたらだめ、嘘つくな、などと詰問していては、母だって生きにくい。何でもいいから話をして息抜きをしたい。つながりをもちたい。
ばかし合い--なのだけれど、ちゃんと「しっぽ」を出して、「嘘ですよ」と言う。ほんとうにだましてしまうわけではない。「ひっそりと笑い合う」、その目の中に「了解」が隠れている。
「注釈」には、いっさい触れなかったが、「注釈」なしだと、こんな読み方になる。
そして、こういう読み方をするとき、頼りになるのは「口語」の響きである。詩の中に「方言(口語)」が出てきていることである。母は息子に、暮らしのなかで身に着けてきた、暮らしのことばそのもので語る。それは「無防備」の母の姿でもある。「口語」だから、「無防備な呼吸」が出てしまう。
訪ねてきた息子にソーメンを出す。それはソーメンしか出せない、ということでもある。「畑をつくる力がなくなってしまって、いつはつくっていない。だからソーメンしか出せない」と正直に言ってしまってもいいのだけれど、それでは息子を心配させることになる。「だからいっしょに住めばいいのに」と言われてしまうかもしれない。そういう会話を避けたくて、母は「ヌートリアが畑のものを全部食ってしまったから、ソーメンしか出せない。ごめんね」と「理由」をこしらえるのである。そういうことは、謝ることでも何でもないのだけれど、そんなふうに「気遣い」をしながら、一方で自分の「暮らし」も守ろうとする。それが「昔の母」である。息子の前だから気が緩んで、身構えたつもりが逆に無防備になって、「地(生身)」が出る。息子に気をつかうことが「生身(地)」かと疑問に思う人もいるかもしれないが、そこに母の「人柄」のようなもの。これが「口語」の響きにぴったりあう。「口語」の響きを読んでいると、ついつい、そういう「人柄(人と向き合ったときの呼吸のととのえ方)」を感じてしまう。
その「呼吸」にあわせて、「ぼく」の方もしだいにかわっていく。目と目で理解し合って「ヌートリア」になっていく。そうか、ヌートリアがこんなところにまで出るようになったのか、と二人で嘘を完成させる。
宇佐美というのは、母に負けず劣らず、「人柄」がいい。この母にして、この子あり、とこういうときに言うかどうかしらないが、何だがうれしい気持ちになる。「人柄」が滲む詩が、私は好きなのだ。
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