閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる
すると地球は静かにまわり
窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる
わたしとわたし以外のものを隔てていた膜が透けはじめて
身体のなかにあったものが形を失っていくのだ
瀬崎祐「越境」の二連目。二行目の「すると」は「論理」をうながすことばだが(論理的なことばがそのあとにつづくはずだが)、ちょっと奇妙。一行目がどんなことを書いているにせよ、その内容とは無関係に地球はまわっている。「静かに」か、どうかはわからないが。
そう考えると、この二行目の「すると」と「静かに」を実感するための「すると」であって、「まわる」という動詞とは無関係であることがわかる。
それに先立つ「閉ざされた部屋のなかにはとまどいが充ちてくる」を統一している「論理」は、二行目ほど複雑ではない。一行目では「閉ざされた」と「充ちてくる」が呼応している。「開かれた」部屋では、とまどいが「充ちてくる」ということはない。「閉ざされている」からこそ「充ちてくる」ということが可能なのである。
なぜ、こんなことを書いたかというと。
何気なく書かれているようだが、瀬崎のことばは「論理」で動いている。動いているように装っている。「論理」があるのだと、読者に感じさせて動いている。そしてその「感じ」のなかに「静かに」のような「事実」かどうかわからないものを「事実」として浮かび上がらせる。紛れ込ませる。
「窓のこちらにいたわたしは外の風景に溶けはじめる」というのは、どういうことか。「わたし(人間)」は「肉体」であるから、それが「溶ける」というようなことは、ありえない。それは「地球がまわる」が瀬崎の思いとは無関係に「まわる」ということと同じであって、客観的な事実である。客観的な事実であるけれど、瀬崎はそれをことばで否定し(というか、違う風に言って)、そのことを「論理的」に言い直す。ことばでしかとらえられない「事実」を「論理的」に証明する。つまり、「説明する」。それが四、五行目。
「わたしとわたし以外のものを隔てていた膜」というのは「皮膚」のことではない。皮膚は「透けない」。「透けはじめる」のは「わたしとわたし以外のものを隔てていた」意識(精神)のようなもの。つまり、瀬崎の「考え」だ。あるいはそれは「考え」ではなくて「静かに」のように個人的な「感覚」かもしれないのだが、「考え(意識/精神)」ということばで私が反応してしまうのは、瀬崎のことばの運動が「論理的」だからである。「論理」を動かすのはもっぱら「精神」ということになっている。常識では。
このとき「膜」は「比喩」なのだ。だから、動詞も「比喩」なのだ。「現実の動き」ではなく、「精神でとらえた動き」。「隔てていた」意識が「透ける」とは「なくなる」ということ。「透ける」は「見えない」。その「ない」が「なくなる」ということ。で、そのとき「身体のなかにあったものが形を失っていくのだ」は、そっくりそのまま「わたしとわたし以外のものを隔てていた意識(もの)が形を失っていく」に重なる。「身体のなかにあったもの」が「意識」である。
瀬崎は、こんなふうに、とっても理屈っぽい人である、ということを確認した上で、三連目を読んでいく。
遠くに見える丘のあたり
梢の形が空につながるあたりには
いくつかの顔が浮かんでいる
わたしの幼いころを知っている人たちのようだ
一行目と二行目はひとつの情景を言い直したもの。「梢の形が空につながる」というのは「視覚的」にはありうるが、実際には「梢」と「空」がつながっているとはなかなか言わない。「空」は「梢」よりも高いところ(離れたところ)にある。雲が浮かんでいるあたりが「空」であって、「梢」のあたりは、どっちかというと「地面」に近い。というのは屁理屈だけれど、そういう屁理屈を言いたくなるくらいに、瀬崎のことばは「論理」を重視して動いている。
で、というか……。
この三連目の四行は、二連目の後半を言い直したものになる。「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」ように、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて、「つながる」。あるいは、「梢」と「空」を隔てていたものが消えて「つながる」ように、「わたしとわたし以外のもの隔てていた」意識が「透けはじめる/溶けはじめる」と、その「透けはじめる/溶けはじめる」ところに、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔が浮かんで」くる。つまり、「わたしの幼いころを知っている人たちの」「いくつかの顔」を瀬崎は思い浮かべるのだが、これをさらに言い直した部分が、とてもおもしろい。
片足を失った叔父はあれからどうしたのだったか
あの人たちには怒りの言葉をむけたこともあった
あのとき約束の時間にあなたたちは遅れてきたでしょう
わたしはあてどもなく心を彷徨わせて飢えていたのですよ
怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか しかし
いまは微笑みの輪郭も曖昧となる時刻だ
「わたしとわたし以外のもの隔てていた意識」は「怒り」と言い直されている。不思議なことに「怒り」は「わたしとわたし以外のもの隔ていた」はずなのに、その「隔てる膜」がわからなくなる。「怒り」のなかに「わたしとわたし以外のもの(他人)」が溶け合って(輪郭をなくして)しまう。「怒り」はどちらかが怒り、他方が「謝る」という単純な形をとらないことの方が多い。互いに「怒る」。「怒る」理由はそれぞれにある。そして、そういうとき、そこには「理由」なんてなくて、ただ「怒り(感情)」がある。
言われてみれば、たしかにその通りだと思う。
おもしろいのは、この「怒り」の本質、
怒りのなかでは
どこまでがわたしであり
どこからがあなたたちだったのか
ということろへたどりつくまで、瀬崎が「論理」をゆるめないこと。何度も「論理」にしたがって、ことばを言い換え、動かしつづけること。「論理」で「感情」の本質をしぼりこみ、そこに見落としていたものを浮かび上がらせる。
おもしろいなあ、と思った。
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