泉冨士子『せんば 在りし日の面影』には「せんば」の暮らしがていねいに描かれる。「おん田まつり」はまつりを見に行ったときのことを書いている。そこに「せんばことば」が出てくる。「こいちゃん、きょうはおん田まつりでしたな、ころっと忘れてましたわ、もうちょっとしたらお清どんについてもろて見物に行といなはれ、気いつけて行きなはれや」。たぶん母親のことばなのだが、この音の響きには不思議な味がある。
「ころっと忘れてましたわ」と言っているけれど、母親はけっして忘れていたわけではないだろう。忙しくてまつりに子ども(原)をつれていけない。「もうちょっとしたら」ということばが、その忙しさを婉曲に語っている。もう少ししたら用事がすむ。ただし、母親はまだ手を離せない。かわりに「お清どん」が原を連れ出すことができる。原は原で、その忙しい感じがわかるので「行きたい」とだだをこねるわけでもない。じっと、母親の許しを待っている。そのときの母親と娘(親子)の力関係というと変だが、「暮らし」のなかで身に着けてきた「礼儀」のようなものがある。それが、ことばの奥から滲んで出てくる。「気いつけて行きなはれや」というのは、母が子どもにかける自然なことばだけれど、それをないがしろに聞くのではなく、きちんと聞いている感じが、そのことばを書き留めるところにあらわれていて、とてもいい感じだ。この「気いつけて行きなはれや」は、少しあとの方で「とうさん、お清の手しっかり持ってなはれや」と具体的に言い直されている。この「言い換え」によって、「場」がいきいきして来る。「口語」ひとつで、その感じを表現する。原のことばの力がとてもよく出ている行だ。子どもの原と母親が、その場にいるように感じる。お清どんも、仕事から解放されて、もう少ししたら原といっしょにまつりに行けると感じていることまでつたわって来るし、さらに、あ、しっかりと子どもの手をにぎって迷子にしてはいけないと思っていることまでつたわって来る。「口語」の力である。「口語」を聞き取る、原の耳の力でもある。
それから着飾って出かけるのだが、その着替えのとき、新しい下駄を履く。横町の下駄屋の主人がすすめた下駄だ。「とうちゃんにはこの下駄がいちばんお似合いでっせ」。なんでもないことばだが、その「口語」によって、下駄屋の主人の姿まで見えてくる。腰をかがめて、下駄を履かせて、子どもの原と同じ視線の高さで原を見つめながら言っているのだろう。同じ高さの視線で言っているから、子どもの原はそのことばをほんとうだと感じる。
そうやって、まつり見物に出かけるのだが、梅雨時のまつりなので、雨が降って来る。そこからあとの部分が、とても美しい。
そのうちに梅雨のあめが、街のあかりの中にくっきりと見えだした。
山車は急に前の川の中へ姿を消す。人々は軒下に身を寄せ、暗い灯
の下でお面をかぶっているように見える。思わずお清どんにしがみ
つく。
耳のよさ(ことばを聞き、おぼえる力)は目にも反映している。原の目は、世界の変化を「くっきり」ととらえて、「肉体」でつかんで話さない。「あかり」のなかに「暗さ」も感じ取る。そのあとの「お面をかぶっているように見える」はありきたり直喩とも見えるが(だれもが簡単につかってしまう常套句のようだが)、まつりの屋台で「お面」を売っていて、実際にそれを持っているひともいるのだろう。「現実」がしっかりと描写のなかに組み込まれている。原のことばには、安直な「借り物」がない。
「ほな、かえりまひょ」お清どんの背中は、広うてぬくうて、こわ
いものや気持のわるいものは何もあがってこない。
ここ出て来る「広うてぬくうて」という「口語」が、また、とてもおもしろい。「梅雨のあめが……」の「標準語」で書かれたことばは、情景をさっと描いて走る。「広うてぬくうて」は、その記憶を、ぐいと「肉体」そのものに引き寄せて、たちどまる。「ほな、かえりまひょ」というお清どんの「口語」に誘われてことばが幼いときのままにもどるのだが、この変化がとてもおもしろい。「こわいものや気持のわるいものは何もあがってこない。」という「こころの動き/安心感」が、まさに、動いたままの状態でつたわってくる。誰かにおんぶしてもらって安らいだときの思い出が、「肉体」の奥から甦って来る。
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