長田弘『最後の詩集』(11) | 詩はどこにあるか

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長田弘『最後の詩集』(11)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「フィレンツェの窓辺で」は、空を走っていく雲をみつめ、雲は「小さな翼をはためかして飛んでゆく」「童子天使」だと思う詩。童子天使は雲の比喩ではなく、雲が童子天使の比喩であるかのように、詩の後半は、天使がかろやかに飛びまわる。
 最後の部分、

ずっと、不思議な音楽の響きが、
耳の奥で鳴っていた。シュトックハウゼンの
「少年たちの歌」だ。近づいてきては
遠ざかり、消えたかと思うと、不意に耳元で、
飛び散る水沫のように、童子天使たちの
幼く短い叫び声がする。フィレンツェでは、
束の間にすぎないのだ、五百年だって。

 こんなふうに動くことばを読むと、「少年たちの歌」さえ天使の比喩のように思える。比喩とは、いま/ここにあるものの本質を表現するために、いま/ここにはないものを代用することだ。ふつうの比喩では「少年たちの歌」を「天使」のようだ、と比喩的に語る。けれど、長田は逆の語り方をしている。
 「少年たちの歌」の方が、雲と同じように、論理的(客観的)には存在する。しかし、それは「耳の奥」という長田の「肉体」の内部にあるので、それがいま/ここに客観的に存在しているということは、他人(第三者)には確認できない。そういうことを利用して、「少年たちの歌」を天使の比喩にしているのだが、そういう語り方をすると、その音楽が客観的にいま/ここには存在しないがゆえに、逆に天使が存在しているような感じになる。実在する天使の本質を語るために、いま/ここにはない音楽が比喩としてつかわれていると感じてしまう。
 現実と比喩が入れ代わってしまう。「童子天使たちの/幼く短い叫び声」こそがいま/ここにあり、それは「飛び散る水沫のよう」という比喩で語られなおしている、と感じてしまう。
 こういう比喩と現実の交代のあと、「束の間」と「五百年」が入れ代わる。「束の間(一瞬)」が「五百年(永遠)」と入れ代わる。長田は、いま、「一瞬」にいるのではなく「五百年」という長い時間(永遠に匹敵する時間)のなかにいる。「五百年」を実感できるフィレンツェに入る。「五百年前」のフィレンツェを「いま」と感じながら、そこにいる。
 「一瞬」と「永遠」は、長田にとってはいつでも同じものである。「一瞬」が充実するとき、それは「永遠」にかわる。長田は童子天使を雲や音楽の比喩で語ることで、「一瞬」を「永遠」に変えている。
 この張り詰めた詩の後半、特に最終行には長田の思想(生き方)が強く感じられるが、私は、そういうことばがはじまる前の部分もとても好きだ。

フィレンツェの石の宿からは
アルノ河のゆたかな水の輝きが見える。
部屋の反対側の小さな窓からは、
くすんだ建物のあいだを抜けてゆく
すり減った石畳の細い路地が見える。

 一方の側だけを見るのではなく、反対側も見つめる。そして見えたものをていねいにことばにしてゆく。見える「風景(光景)」をしっかり見極めて、その先にある「見えないもの(本質)」を探そうとする姿勢が、そこに感じられる。
 こういう長田の姿勢を、「知っていることばを捨てるために書く」と私は感じている。知っていることばを捨ててしまったあとに、知らないことば(新しいことば)がやってきて光景を発見する。光景に最適のことばがみつかる。そういう発見するためには、それまでの知っていることばを捨てて、視線そのものを新しくしないといけない。視線だけでなく肉体(聴覚や触覚など)を新しくないといけない。生まれ変わることで、初めて発見できるものがあるのだ。

路地には有機パンの小さな店があって、
パンを抱えた老女が路地の奥へ消えてゆく。
過ぎてゆく時の足音が聴こえるようだ。

 この「聴こえる(聴く)」という動詞が後半で「音楽(少年たちの歌)」を聴くことになる。
 詩のハイライトも美しいが、詩の助走も美しい。助走が美しいからこそ、あざやかな飛躍ができるのだと思う。


最後の詩集
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