長田弘『最後の詩集』(10) | 詩はどこにあるか

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長田弘『最後の詩集』(10)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アレッツォへ」で「光の恩寵」と呼ばれていたものは、「アッシジにて」では次のように言われてる。

街と畑と野と丘と空を、わたしは
見ているのに、わたしが見ているのは、
(見るとはしんと感じることだった)
わたしがいま、ここに在る、
この場所をつつむ風光なのだった。

 これは、わたしをつつむ「風光」の「恩寵」、あるいは、わたしをつつむ「風光」という「恩寵」によって、わたしは「ここ(この場所)に在る」ということ。そして「この場所」とは「アッシジにて」のことばを借りて言えば「無骨に生きる人たちの世界の像」としての「風景」のただなかのことである。そう長田は気づいた。気づかされた。(これに先立つ行に、「気づいた」ということばがアッシジの街と畑と野と丘と空を「見つめる(見る)」という動詞といっしょに書かれている。)
 「見る」「気づく」は「発見する」「知る」ということばにつながるが、ここではさらに、

(見るとはしんと感じることだった)

 と書かれている。「発見する/知る」は精神の活動。「感じる」は「精神」というよりも「こころ」の動き。
 「恩寵」も「知る」のではなく「感じる」ものだろう。
 わたしをつつむ「風光」によって、わたしはここに在ると感じるとき、長田はそのことを「恩寵」として感じている。
 この「感じる」に「しんと」ということばがついている。「しん」は「沈黙して/静かに」ということ。ことばを発せずに、ただ受けいれるということ。ことばを捨てて、ことばを「無」にして、受けいれること。
 この光景を、長田は、また別のことばで言い直している。

聖堂も、教会も、大いなる修道院も、
中世来の建物も、街の普通の家々も、
幼な子の肌色をした風光のなかに溶け入って、
(風の音、そして消えてゆく鐘の音)
ウンブリアの陽光が、明るい沈黙のように
夏の丘を下って、ひろがっていた。

 「恩寵」としての「光景」を受けいれたとき、長田は風光のなかに「溶け入って」しまう。「溶け入った」のは建物だけではない。長田も溶け入って、風光そのものになる。そして、「ひろがって」いく。「しんと」ということばは「沈黙」と言い直されている。風の音も鐘の音も消えて(沈黙して)、光がひろがる。このひろがるは、「充実」を言い直したものでもある。光がひろがり、光が満ちる。
 その至福のなかにいる長田に問いかけるものがある。

どこからきたの? 雑草と石ころが言った。
どこへゆくの? 小さなトカゲが言った。

 書いていないが、長田はきっとこう答えたのだ。「どこへもゆかない。ここにいる。どこへでもゆく。ここにいる。」と。「ここ」が、すべて。「ここ」が「永遠」。
 長田が光景をことばにする。そのとき、あらゆる場所が「ここ」になる。「ここ」こそが「恩寵」がおこなわれる場所なのだ。

最後の詩集
長田 弘
みすず書房