長田弘『最後の詩集』(9) | 詩はどこにあるか

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長田弘『最後の詩集』(9)(みすず書房、2015年07月01日発行)

 「アレッツォへ」のなかに「恩寵」ということばが出てくる。

登りとはほとんど感じられないのに、
登りきったところで周囲の風景がひろがり、
丘の上にいることにはじめて
気づくようなのがいい。
眺めというのは光の恩寵なのだから。

 これまで読んできた詩のなかでは、「眺め」は「発見するもの」のように書かれていたと思う。

窓を開け、空の色を知るにも
必要なのは、詩だ。                 (「詩って何だと思う?」)

 「知る」は「目を覚ます」でもあった。その「知る」という「主体的」な動詞のために、私は「知る」を「発見する」と読んだ。
 「知る」は「アレッツォへ」のことばで言い直すならば「気づく」になる。「気づく」も自分の動きのように読める。私は、読んでしまう。「自分で気がつく」と。
 しかし、長田は「気づく」と書くけれど、そこに「自発性」以外のものを感じている。「気づく」は「気づかされる」である。これが「恩寵」。「眺めは光が与えてくれたもの(恩寵)」であると「気づく/気づかされる」。
 世界には「気づかされた」のに、「気づいた」と勘違いすることがたくさんある。
 長田がここで書いていることばをつかっていえば、気づかされたとは「ほとんど感じない」のに、それは「気づいた」のではなく「気づかされた」ことだった、ということになる。知らず知らずに「はじめて」のように「気づく」。
 「気づいて」、しかしそのあとで「これは気づいたのではない、気づかされたのだ」と知ったとき、それは「恩寵」に変わる。
 長田は丘の上から光景(「景色」ということばをつかっているが、長田の描く世界は「光景」ということばの方がふさわしいと思う)を眺め、そう感じている。そう記すことばを読みながら、そこに書かれていることばは長田から私たちへの「恩寵」なのだと思う。
 岡田が書いているようなゆるやかな、おだやかな起伏をのぼり、静かに広がる光景を見たことが、岡田のことばを読むことで甦ってくる。長田のことばを読まなければ思い出すことができなかったもの、気づくことができなかった世界が、見える。それは私が「気づいた」のではなく、長田のことばに「気づかされた」のである。だから「恩寵」という。
 「恩寵」には「気づかされてくれた」だれかに対しての感謝がこめられている。
 この詩には、「恩寵」としての「風景論」が書かれている。人間と風景との関係が書かれている。「風景」への「感謝」が書かれている。

人は妄念を生きるのではない。
風景を生きる。風景は装飾ではなく、
無骨に生きる人たちの世界の像なのだ。
風景は開かれた眺めをもたなければならない。
なぜなら、人には、ある種の孤独、
休息のかたちをとった
空間が必要だから。

 この部分だけを取り出すと、「風景」の「必要性」を書いているようにも読めるけれど、「風景」に出会い、そこで「孤独」を癒してきた(癒されてきた)という思いが、このことばを動かしている。「開かれた眺め」に出会い、そこで「孤独」を開放することができた。そういう長田の体験が、このことばを動かしている。
 「風景」を「無骨に生きる人たちの世界の像」と言い直すとき、長田の眼は「無骨に生きる人たち」にそそがれている。「無骨に生きる」は、「朝の習慣の」ことばを借りて言いなおせば、「希望」や「未来」を念頭において生きるということとは違った生き方だろう。「目的」の「達成」のために生きるのではなく、「一刻を失うことなく、一日を/生きられたらそれでいい。」という生き方だろう。「一瞬」を大切にし、その「一瞬」を充実させて生きる人が知らず知らずにつくりあげたものが「風景」なのだ。ひとと風景が一体になっているのを私たちは「眺める」。そのとき「風景」は、「無骨に生きる人たち」からの「恩寵」であるとも言える。
 そう書いたあとで、長田は、さらにつけくわえる。

生きられた人生の後に、
人が遺せるのはきれいな無だけ。
時の総てが過ぎ去っても、
なおのこる、軽やかでいて
濃い空の青だけだ。

 「無」は「無骨」ということばのなかの「無」でもある。それは「希望」や「未来(目的)」をもたない。人間を縛る「希望/未来」とは無縁なものをこそ、長田は遺したいと願っている。
 「無」はまた汚れをもたない「透明/光」のことでもある。「一点の曇りもない青い空」ということばが「アレッツォ」のなかにあるが、それが「無」であり、「透明/光」である。その「無/透明/光」を「青」ととらえるのは長田の特徴だが、その「青」を修飾する「濃い」ということばが強烈だ。
 「濃い」には「充実」がある。「充実」したことばを遺したい、という長田の祈りの切実さを感じ、体がふるえる。


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