金堀則夫『金堀則夫詩集』 | 詩はどこにあるか

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金堀則夫『金堀則夫詩集』(新・日本現代詩文庫121 )(土曜美術出版、2015年03月30日発行)

 私は金堀則夫の初期の作品を読んでいない。そのせいかもしれないが『石の声』の作品をおもしろく感じた。
 「石の声」は、

そらとかわ。
なわをなって
かわなみをつくる。

 という不思議な三行で始まる。「かわ」と「なわをなう」が交錯して「かわなみ」になる。「川波」だろうか。「川並」だろうか。「川並」ということばはないかもしれないが、「山並」みたいに川がうねっている感じが「なわ」(なわをなう)と重なる。なわをなうと、なわが一筋の川のようにのびていく。

なみの
うねりは
しめつける。

 と二連目につながるのだから「川波」なんだろうけれど、「川並」が意識のなかでのこりつづける。

ぬけだすことも
とびだすことも
できない。
しぼりおちた声。
いちめんに
そこへと
ひろがっていく。

すぎさる日日。
しぼりおちた声。
かたまる石。
石なみは
みずのながれに
号泣している。

 「しぼりおちた声」という行が繰り返されている。川に来て、声を殺して泣く。その涙が川となって流れていく。いや、流れずに、川の底にひろがり、石になってかたまる。石になって、そこにとどまっているのか。誰が泣いたのか書いていないが、「ひとり」というよりも、そこに住むひとの多くだろう。
 「石なみ」はやはり「石波」、石にぶつかってできる波のことを書いているのかもしれないが、「石並」と読むと、びっしりと並んだ石が見えてくる。そのひとつひとつが、そこに暮らすひとのひとりひとり。誰もが涙を落として、その涙が石になって、そこにある。川が流れると、その水が誘い水(誘い涙?)になり、号泣が聞こえる。
 そんなことは書いていないのかもしれないが、そんなことを想像する。簡潔なことばが、何か「神話」を感じさせる。ドラマを感じさせる。
 「水の宴」にも、少し似たことばの動きがある。

岩まから
みずは走っている。
かわきのはやさを消そうと
はげしく みずは走っている。
かわく不安。
それが あわただしく
みずをながし かわをつくる。

 「かわく」から「かわ」への不思議な移行がある。「乾く」と「川(水がある)」はいわば反対のものだが、矛盾するからこそ、その結びつきが強烈に響いてくる。水不足の土地の川かもしれない。水に苦労する土地の「神話」かもしれない。
 「石の水」はさらに「神話」的だ。

雨あしが岩にあたって
白くとびはねている。
とびつくところもない空にむかって
とびはねている。

 この雨(水)がやがて岩を彫り上げ、石仏が生まれる。

石仏の
顔かたち。
みずと岩がとけあい
うきあがる。

目から
口から
手から
みずがしたたり
わきあがる。
吸い込んだ雨。
おまえのうたを
おまえのことばを
まろやかに流れおちて
川へと流れていく。

 水の少ない土地の、石の多い土地の、神話(川への、水への願い)が、そこに感じられる。そういう「意味」とは別に、あ、これはいいことばだなあと感じたのが、二連目の

おちるすべてが
すなおに降りそそぎ
いわにあたって
はねあがる。

 その「すなおに」ということば。
 金堀が、対象を「すなおに」見つめている感じが、そこにあらわれている。「すなお」が発見した「神話」がここには書かれていると感じた。


金堀則夫詩集 (新・日本現代詩文庫121)
金堀則夫
土曜美術社出版販売