私は金堀則夫の初期の作品を読んでいない。そのせいかもしれないが『石の声』の作品をおもしろく感じた。
「石の声」は、
そらとかわ。
なわをなって
かわなみをつくる。
という不思議な三行で始まる。「かわ」と「なわをなう」が交錯して「かわなみ」になる。「川波」だろうか。「川並」だろうか。「川並」ということばはないかもしれないが、「山並」みたいに川がうねっている感じが「なわ」(なわをなう)と重なる。なわをなうと、なわが一筋の川のようにのびていく。
なみの
うねりは
しめつける。
と二連目につながるのだから「川波」なんだろうけれど、「川並」が意識のなかでのこりつづける。
ぬけだすことも
とびだすことも
できない。
しぼりおちた声。
いちめんに
そこへと
ひろがっていく。
すぎさる日日。
しぼりおちた声。
かたまる石。
石なみは
みずのながれに
号泣している。
「しぼりおちた声」という行が繰り返されている。川に来て、声を殺して泣く。その涙が川となって流れていく。いや、流れずに、川の底にひろがり、石になってかたまる。石になって、そこにとどまっているのか。誰が泣いたのか書いていないが、「ひとり」というよりも、そこに住むひとの多くだろう。
「石なみ」はやはり「石波」、石にぶつかってできる波のことを書いているのかもしれないが、「石並」と読むと、びっしりと並んだ石が見えてくる。そのひとつひとつが、そこに暮らすひとのひとりひとり。誰もが涙を落として、その涙が石になって、そこにある。川が流れると、その水が誘い水(誘い涙?)になり、号泣が聞こえる。
そんなことは書いていないのかもしれないが、そんなことを想像する。簡潔なことばが、何か「神話」を感じさせる。ドラマを感じさせる。
「水の宴」にも、少し似たことばの動きがある。
岩まから
みずは走っている。
かわきのはやさを消そうと
はげしく みずは走っている。
かわく不安。
それが あわただしく
みずをながし かわをつくる。
「かわく」から「かわ」への不思議な移行がある。「乾く」と「川(水がある)」はいわば反対のものだが、矛盾するからこそ、その結びつきが強烈に響いてくる。水不足の土地の川かもしれない。水に苦労する土地の「神話」かもしれない。
「石の水」はさらに「神話」的だ。
雨あしが岩にあたって
白くとびはねている。
とびつくところもない空にむかって
とびはねている。
この雨(水)がやがて岩を彫り上げ、石仏が生まれる。
石仏の
顔かたち。
みずと岩がとけあい
うきあがる。
目から
口から
手から
みずがしたたり
わきあがる。
吸い込んだ雨。
おまえのうたを
おまえのことばを
まろやかに流れおちて
川へと流れていく。
水の少ない土地の、石の多い土地の、神話(川への、水への願い)が、そこに感じられる。そういう「意味」とは別に、あ、これはいいことばだなあと感じたのが、二連目の
おちるすべてが
すなおに降りそそぎ
いわにあたって
はねあがる。
その「すなおに」ということば。
金堀が、対象を「すなおに」見つめている感じが、そこにあらわれている。「すなお」が発見した「神話」がここには書かれていると感じた。
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